京都市電は1978年(昭和53年)に全廃していますが、祇園祭に関係が深い四条線は1972年(昭和47年)、烏丸線は1974年(昭和49年)に廃止されています。
昨日、京都市内のコミュニティで「祇園祭と市電」と題する講座が開かれたので、受講してきました。
その中の一節。
京都市では明治維新で首都が東京へ移り、商業活動も大阪の規模が大きくなり、このままではジリ貧になると焦燥感を募らせました。
そこで烏丸通りと四条通りを拡幅して市電を敷設し、経済活動を活発化させる施策を打ち出します。(明治30年代~)
そして1912年(明治45年)に「祇園祭の山鉾巡行で市電の運行が妨げられるのはケシカラン。巡行は中止せよ」と市からお達しが出ます。
永年続いた祇園祭の山鉾巡行が、消滅の危機を迎えました。
町衆も黙っておらず陳情や市の交通部門と交渉し、巡行する時だけ交差点(四条新町、四条室町、四条烏丸、四条寺町など)の架線を切断することで、祭りを催行することになりました。
しかるに前祭は17日に従来通り巡行したのですが、20日過ぎに明治天皇が御不例(重篤な症状)となられ、後祭の飾り付けは自粛することになり、巡行も中止となりました。
浄妙山の古い記録(浄明山沿革史:当時は「明」の字を使っていた)には鬮順が空白になっていました。
そこで京都学・歴彩館(旧、京都府立総合資料館)のマイクロフィルムで日出新聞(現、京都新聞)を閲覧すると、15日に鬮取りが行われ、浄妙山は壱番を引いていた様です。
鬮順の記事の左隣には、巡行時に市電が運転停止することも載っていますが、後祭の巡行が中止となったので、24日の架線切断(烏丸三条と四条烏丸)は無く市電は通常運行したと思われます。
そして7月30日に明治天皇が崩御され、翌日の31日には「大正」へ改元と、歴史は大きく転換して行きます。
更に追記すると、大正2年は明治天皇の御一年祭、大正3年には御三年祭のため、後祭の山鉾巡行は8月に執行しています。
こうして祇園祭の山鉾巡行に伴う京都市電の対応(架線の切断)は、廃止されるまで毎年行われていました。
市電の廃止で風物詩(?)は消えた様に思えますが、現在でも交通信号機に、その名残をとどめています。
(画面をクリックすると、動画が再生されます)
★『鶏鉾』が通過し、直後に交通信号機が復旧(90度、向きを変える)される様子。
【追記1】
日本の各地で市電が開通した、この時代、祭りの山車が市電の架線を支障する(或いは、その危険性がある)ため、祭行の廃止に追い込まれたものが多く有ると聞きます。
京都の祇園祭は、巡行の存続に成功した数少ない事例の一つと言えます。
【追記2】
インターネットやTVの無い時代、新聞の担う役割は大きいものがありました。
日出新聞(現:京都新聞)は山鉾町の窮状を紙面に詳しく載せ、市の主張やそれに賛成する意見など、双方の主張を公正に報道し世論を形成しました。そして行政側も歩み寄りを示しました。