国破れて山河あり、城春にして草木深し…!
よく「中国4000年の~」という言葉を耳にします。世界四大文明の発祥の地でもあります。それだけ古くから文化が栄え、多くの人智が詰まっているということの意味でしょう。私は、中国の古代のことを扱った歴史小説が大好きで、たくさんの書を読みました。例えば、吉川英治さんの「三国志」もその一つです。三国志は、古いといってもAC200年時代の魏・呉・蜀の国家三分の計の話ですから、4000年の歴史から言えば、序の口ですね。それでも、日本でいえば「魏志倭人伝」に出てくる卑弥呼の時代ですから、かなり古い話です。また、司馬遼太郎さんの「項羽と劉邦」という小説も読みました。それは、秦の崩壊後から劉邦が漢王朝を建国するまでの話ですのでBC200年ころの話です。日本でいえば、縄文時代の話で文字による文献が残っていないので未知な部分が多い時代の頃です。それでも、それでも、まだまだ中国3000年の歴史まで遡っていません。一番古い時代を扱ったいるのは、宮城谷昌光さんの「天空の舟」あたりでしょうか。それは、殷の前の夏(商)ともいわれる時代のことをテーマにした小説です。BC1700頃の話になります。ようやっと、中国4000年前に近づいてきました。この頃は、まだ漢字はできてなく、甲骨文字でした。亀の甲羅や動物の骨に象形文字らしきものが刻まれ残されていた時代の頃のことです。宮城谷さんは、乏しい文献や資料から「浅田次郎賞」を受賞する超大作に仕上げたのですから、その想像力には驚かされます。ところで、中国の歴史に関しては、世界史でも勉強したと思いますが、殷・周・秦・漢・隋・唐…清と王朝が興亡しています。しかし、広大な領地を一国で統一した王朝は数少ないです。むしろ、複数の国が並び立ち、あるいは潰し合い、あるいは協力し合いしながら、成り立っていたことの方が普通です。そこに、北方の民族が度々侵入してきて、元や清などの異民族の王朝もいくつかできました。ですから、中国の歴史と言っても、日本とは全く比べ物にならないくらい複雑で、奇想天外な歴史も生まれました。常に、多国籍であり、多文化との接触があり、宗教も思想もたくさん生まれ、たくさんの血が流されました。ですから、それぞれの時代にそれぞれの偉人が出てきて国を動かしてきた歴史的な事実があります。それだからこそ、多くの作家が中国の古代の歴史小説を書くには困らないほど、魅力も話題もあったとも言えます。
中国王朝の興亡の歴史から見え隠れするものは…⁉
前述したように、中国では、たくさんの王朝が興亡してきました。それは、「新しい国(王朝)ができるということは、以前の国は衰退する」ということを意味します。そして、その興亡に共通してみられることは、その原因は突然起こるものではなく「必ず前兆がある」ということです。いろいろな小説を読んで感じとれることは、①国王が政治から心が離れたり、圧政によって人心がはなれたりすること ②愛妾に心を奪われ、その一族を重用し悪政になること ③宦官が王を誑かし政治が乱れること ④国王の一族が内部で叛乱を起こすこと ⑤自然災害が頻発し国政が不安定になること ⑥北方民族が国内を頻繁に侵略・略奪すること ⑦官僚や役人の腐敗政治 ⑧国内に邪悪な思想や宗教が蔓延ることなどが原因として考えられます。①から⑧の要因が単独で、国を崩壊させるというよりも、それぞれの要因が関連して徐々に崩壊していく道をたどったといった方が、現実的かもしれません。特に⑧に関しては、日蓮大聖人の御書の中にも古代中国の話はよく出てきます。例えば、一つ目は周末の例で、仏法とは無関係の立ち場であっても、一国の興廃には必ず前兆のあること。二つ目は晋代の例で、外道(仏法以外の宗教)においても国の興亡には必ず前兆のあること。三つ目は唐末の例は、仏法においても、当初邪法が流布すれば、一国に災難が起きてくる。このような実例を挙げて、思想・宗教の乱れが、その国家興亡盛衰の前兆となったことを述べられました。ここで、周末の乱れ周の末についてみれば、暗君の幽王が立ったために、民衆は、再び苦悩のどん底に追いやられた。特に旱害が続き、陝西地方に大地震が起こったりして天災が重なったために、悲惨な状況は、筆舌に尽くしえぬものがありました。民衆が苦悩している時、幽王は、愛する褒姒(ほうじ)の歓心を得るため、いろいろなばかげたことをやってのけた。たとえば、褒姒が少しも笑わないので、これを笑わせるために、外敵の侵入を知らせるのろしをあげさせた。四方から馳せ参じた諸候が、外敵の侵入がなかったので、拍子ぬけした顔をした。これを見て褒姒が大笑いした。褒姒の笑顔を見たい一心の幽王は、その後、幾度となくのろしをあげたので、諸候はのろしの合図をまったく信用しなくなってしまった。さらに幽王は、皇后の申后と太子を廃して、褒姒を皇后に、その子伯服を太子に立てようとしたため、皇后の一族は、西北の犬戎をそそのかして幽王を攻めさせた。幽王はのろしをあげて、諸候を召したが、集まるものとてなく、幽王は犬戎の手にかかって殺された。周の鎬京の都は陥落し、完全に夷狄(いてき)の手中に落ちた。諸候はやむなく東にのがれて、もとの皇太子を立てて平王とし、東方の都洛邑(現在の洛陽か)で即位させた。この遷都をさかいに以前を西周、遷都後を東周と呼んでいます。この周の末から秦が中国を統一するまでの500年間は春秋戦国時代と呼ばれ、こ時期に孔子が現れます。孔子の理想は、周公の定めた制度を復興し周の礼に返ることでしたが、儒教の限界であり、もはや、いったん失われた礼儀は、人為的にいくら復興しようとしても、復興できなかったのです。この時には仏教は中国に伝わっていず、礼儀や頽廃は、民衆の生命の奥深くに根ざしたものであり、それに対し、再び形式的に礼儀を押しつけようとしても、もはや何の効果もなかったのです。この孔子の失敗した事実にも、そのころの礼儀の頽廃がいかにひどいものであったかが伺われます。第二の晋の衰微についてですが、後漢の滅びた西暦202年から隋の建国589年までの約360年間は、まさしく動乱の時代であった。この時代は魏・蜀・呉のいわゆる三国鼎立の時代からはじまり、西晋となり、一時中国全体を平定、統一しましたが、北方異民族の侵入のために西晋は南に下って東晋となり、北に五胡16国、南に東晋と南北朝分かれて対立したのです。北朝は異民族の盛衰、興亡が激しく、わずか120年の間に成・漢・後趙・前燕・前凉・前奏・後燕・後奏・西泰・後凉・南凉・北凉・南燕・西凉・夏・北燕と大小16の王朝がめまぐるしく入れ替わりました。この間に「竹林の七賢人」が活躍しました。竹林の7賢といえば、聞こえもよく、いかにも聖人君子の集まりであるかのように思えますが、実際には、当時の行き詰まった世相に飽き飽きした者たちが、儒教倫理の形式主義をわざと無視し、酒を飲み、詩を吟じて気違いじみた行動を起こしたといった方が、正しいのです。いかに当時の社会が思想的には勿論、あらゆる面で行き詰まり、乱れきっていたかが想像されます。この間、住民は、戦争、凶作、略奪に追われて、流亡し続けました。296年、297年には関中一帯に大飢饉が続き、かつ悪疫が流行しました。米価の値上がりが甚だしく、一般の人々は、生きるために子を売り、妻を売ったということです。第三に、国の亡んだ例として、日蓮大聖人は唐の末の例をひかれています。唐代といえばその領土の大きさといい、華麗な文化といい、中国の歴史中、最も栄えた時代であり、四方の異民族とも最も善隣友好を結んだ時代です。特に、第2祖太宗の時代は、国力は充実の一途を辿り、”貞観の治”と呼ばれる太平の一時期を築きました。それはちょうど陳の天台大師が、南三北七と乱立していた仏教を、法華経に統一してから約50年にあたり、儒教・道教に比して仏教が国の上下から篤く信仰されていた時代でした。唐王朝はその後、一時王朝内部に叛乱があって動揺しましたが、第6代玄宗皇帝の時に再び国力は充実して、”開元天宝の治”と呼ばれる太平の世を出現しました。唐代を代表する華麗な文化は、この時代にほとんど完成され、その勢力は広く周辺の異民族を敬服させ、遠くペルシァ、ローマとも積極的な交流が行われたのです。当に、法華経とともに唐は政治も文化の最高潮を迎えたのです。しかし、この繁栄も玄宗皇帝の晩年は、かの有名な”楊貴妃”を寵愛し一族を重用してから乱れをみせ、安禄山と史思明が朝廷に向かって叛旗を翻したことで、中央の権力は極度に弱まりました。この安史の乱で、唐の国土が破れ果てたことをうたった詩が有名な詩「春望」です。その一節が「国破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす…」です。その後、唐の属国となっていたチベット国が唐の朝廷の命を拒み、異民族のウイグルの叛乱はますます度を加えるなど、唐朝の勢力は、まったく失墜しました。武宗皇帝は、その原因を道士(道教の僧)趙帰真に問いただしたところ、仏教を弘めさせたのが原因と奏上したため、会昌5年、皇帝は勅を発して国内の仏寺44600余を破壊し、僧尼26万人に対して還俗を強制するなど、仏教に対して極端な弾圧政策をとりましたた。このため、国の内外はますます騒然とし、皇帝自身も、会昌6年(0847)強度の神経衰弱と背疸のため悶死しました。慈覚はこの死こそ、仏教を弾圧した罰であると、かの入唐巡礼記の中に書いています。以上の3例からもわかるように、国の興亡する時には必ずその前兆があり、春秋時代も、魏晋南北朝も、唐代末も、すべてその原理通りになっていることは明らかです。特に唐の滅亡は、一つは邪教念仏宗の流行と、二つには仏教の弾圧と二つの原理が考えられます。その他にも、黄巾の乱、紅巾の乱、白蓮教徒の乱、太平天国の乱等々、世相の混乱に乗じて民衆と宗教が結びついて反乱を起こし、時の政権に重大なダメージを与えた例はたくさん見られます。これは、何も中国に限ったことではありません。また、古代に限ったころでもありません。これは、いつの時代にでも、どこの国でも起こりうることなのです。思想、宗教の乱れは、人の根本精神を司るものなので、そこが狂い始めれば、すべてに狂いが生じるというのは、世の常・人の常なのです。
結論:日蓮大聖人は、『立正安国論』の中で、『国土乱れん時は先ず鬼神乱る、鬼神乱るるが故に万民乱る』との経文を引かれ、社会の混乱の原因を論じられています。この文は、鎌倉時代のみならず、現代社会の本質を見事に突いております。ここでいう『鬼神』とは悪鬼のことで、『鬼とは命を奪う者にして奪功徳者と云うなり』とあるように、生命自体を破壊し、福運を奪う、『人間の内なる作用』です。現代的に表現すれば、『生命の魔性』の意味であり、人間が完全にエゴにとらわれ切っていく、その本質を『鬼神』と表現したと考えられます。この人間のもつ生命の魔性の跳梁が、『鬼神乱る』ということになります。「最初の『国土乱れん時は』の『国土』とは、自然環境的な面とともに、『社会』という意味もあります。自然と人間とを含めた総体としての『国土』であり、その国土が乱れる時には、それ以前に、必ず人間のエゴ、エゴというよりもっと本質的な生命のもつ魔性が、底流として激しく揺れ動くということです。その結果、『万民』すなわち、あらゆる人びとが狂乱の巷へと進み、やがて、その国土、社会は、破滅の方向へと走っていく。ゆえに、「この『鬼神乱る』という生命の本質を解決する法をもたない限り、社会の乱れを解決することはできない」と日蓮大聖人は言われています。その根本解決の法こそ、妙法であり、南無妙法蓮華経であると強く叫ばれたのです。人々の心の中に、妙法の種を植え付けて、生命自体を破壊し、福運を奪う働きを摘み取っていくこそが、世の安定と繁栄に繋がるのだと教えられているのです。唐代の「貞観の治世」、日本の桓武天皇の時代に法華経が流布し平安京にて政治と文化が花開いことはその証でしょう。