私の見てきた景色

「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」のお話で
す。



私は、1975年生まれの46歳。年齢をはっきりさせるのは、事故とリンクするからなの。

私の個性の原点だから。

1981年10月16日、今から約40年前、炭鉱で事故があったの。

一度の事故で93人が死んだのよ。

坑内でガスが発生して火災。

事故から6日目に、59人の安否確認が出来ないまま、消火のために注水。

もしその時点で生存者がいたら、生き埋めにしたことになるわ。

遺体が全て回収されたのが、事故から半年後の1982年3月28日。

その翌週、私は小学校に入学したの。

だから、突然父親を失った人、見切りをつけて転職する人、転校ラッシュで小学生ライフが始まったわ。


ゆっくり解説・概要 (動画10分40秒)



ゆっくり解説・補足 (動画9分40秒)



中日ニュース (動画2分)



国策で生まれた街

明治7年(1874年)北海道の開拓で、調査隊が「石炭の大露頭」を発見したの。

炭鉱のために街ができ、人が住んだ。

炭鉱の開発や工事の殉職者の数はわからないけれど、

ウィキペディアの年表では、

明治40年(1907年)~昭和60年(1985年)の間に、夕張市内だけの炭鉱事故で死んだ人の数は、合計すると1635人になったわ。



明治、大正、昭和にかけて、豊かになる暮らしの裏で、必要とされていたことよ。

燃料が石油に変わってから、国家にとっては不要になったの。

用済みの街には、人だけが残ったのよ。

だから私は、大きな力と個人の関係。そこにフォーカスしてしまう。