「愛」とは、エネルギー。

誰かを照らすエネルギー。私を動かすエネルギー。これが、私の定義です。

自分の「愛」という言葉の定義は、自分で作ってよくて、他人には強要できないもの。

その感覚を表す、ボキャブラリーの多さを私たちは持っていないのですから。

この先、また変わっていく可能性もあります。愛って何なの?そう思って、はっきりわかるまで20年以上かかりました。そのストーリー。

幼いころから「愛」という言葉は、胡散臭いものだと感じてきました。大人達は「永遠の愛」を誓うのに、金銭や貞操のトラブルがあると「愛が冷めた」と、誓いを反古にして別れてしまいます。

20代前半、聖書を学ぶ機会があり、「愛」の定義を語る言葉はたくさんありましたが、納得できるものがなく、「神(愛)はアルファであり、オメガである」始まりから終わり。全てであり循環。という結論でした。

全く納得がいかない。ハリウッド映画や、その価値観を模倣した日本のドラマ。綺麗ごとばかり言うけど、行動が全く合っていないの。言ってる事と、やってる事が違う。

日本に「愛」という言葉が入ってきたとき、二葉亭四迷が「あなたのためなら死んでもいい」と訳しました。「愛」はキリスト教文化の言葉であり、日本人には理解不能なのがわかり始めました。

ハリウッド映画では、「愛」は男女が絡む場面で使われる言葉が多く、金髪碧眼のキリスト教用語といえます。所有、支配の文化の中では、逐一語らなければ忘れてしまう。

分かち合う、日本の文化では、「愛」は語るまでもなく、既に溢れているから、わざわざ言葉にしてこなかったのです。困っている人を反射的に助けるので、言葉はいらない。

30代前半、太宰治が、やたらと目に付く時期があり、ネットで調べた事が、ありました。「走れメロス」は彼の綺麗事、妄想。私は、最低の男だと思いました。

太宰治は活躍当時、そこそこイケメン、そこそこ売れてる。中堅の芸能人的で、カフェ(現在のキャバクラ)に行けば、ちやほやされて、交際相手に苦労しなかった事は、想像できました。

良く言えば繊細、精神的に、脆くて弱くて何度も自殺未遂しているのですが、1人で死ぬのが怖くて、交際中の女性を道ずれにします。愛を誓った女性と、入水自殺をはかります。

溺れて苦しくなり、死にきれず助かる。連れの女性だけ命を落とす。それを4回も繰り返した。私にとって、太宰治は、最低男の代名詞となりました。そして、対極にある三島由紀夫に出会います。

三島由紀夫、その周辺の作家や政治家、軸がぶれないという印象がありました。古き善き日本の伝統精神を守りたい。「国粋主義」という思想に出会います。まだ、ピラミッド構造を知らないので、国粋主義の中での「愛」の理解。

三島由紀夫から愛の否定、ピラミッド構造、再び愛の肯定へと繋がりますが、そこへの導きで太宰治があったのですね。私はいつも回り道ばかりよ~!


(つづく)