「朝ドラ(おちょやん) 藤山寛美もうすぐ登場」 | HONDAのブログ

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ようやく おちょやんと 2代目 渋谷天外が結婚する 昭和5年

までドラマは進んできました。あと少しで 藤山寛美が登場します。

朝ドラにしては だいたい史実に忠実に描いているように思います。

浪花千栄子は8歳の時から、道頓堀の仕出し料理屋「浪花料理」

で、おちょやんとして働いていました。

2代目・渋谷天外は、浪花料理の向かいにある芝居茶屋「岡島」に

居候していたため、2代目・渋谷天外と浪花千栄子は幼なじみでし

た。そして、浪花千栄子は女優になっても給料が安いため、

岡島に住み込みで働きながら女優を続けていて、渋谷天外と岡島

で同居していたのです。

渋谷天外は女性関係が多いため、浪花千栄子がデートする女性

をセッティングするというマネージャー的なことをしていました。

しかし、昭和5年(1930年)12月22日に結婚。

(渋谷天外)

渋谷天外が24歳、浪花千栄子が23歳のことでした。

2人は岡島の許可を得て、岡島を出て借家で同居を開始します。

(今週は)

曾我廼家(千之助)十吾 と 曾我廼家(万太郎)五郎の いき

さつを描いて 一息ついてる状態です。

(曾我廼家(万太郎)五郎)

(曾我廼家(千之助)十吾)

 

(これからですが)

一方、昭和6年(1931年)9月に「松竹家庭劇」は突然、解散となり

ました。その理由は、渋谷(天海)天外と曾我廼家(千之助)十吾が

対立したためと言われていますが、曾我廼家十吾が気に入らない

新派を追い出すクーデターだったとも言われます。

曾我廼家十吾のクーデターは成功し、松竹が間に入って渋谷天外

と曾我廼家十吾が握手し、

昭和7年(1932年)5月に第2次「松竹家庭劇」が再発足。この頃から、

渋谷天外は「松竹家庭劇を立て直す」という意味を込めて、「舘直志」

というペンネームを使い始めたようです。

しかし、第2次「松竹家庭劇」は、おばあさん役を得意とする曾我廼家

十吾に主導権を握られていたため、渋谷天外は耐えなければならな

い時代を迎えます。

「松竹家庭劇」は昭和11年(1936年)に東京進出を果たし、昭和13年

(1938年)からは定期的に東京でも公演するようになりました。

渋谷天外は脚本も書いていましたが、キャスティングを決めるまでの

権力は無く、浪花千栄子は、脚本家の妻が良い役を取っては示しが

付かないということだけでことごとく役がつかず、誰も嫌がる役ばかり

押しつけられていました。

渋谷天外が浪花千栄子のために書いた脚本でも、浪花千栄子は役

を貰えません。しかも、出演者が事故で出られない時には必ず代役

を頼まれるため、全ての舞台を観て、全ての台詞を覚えていたという

不遇の時代がありました。

渋谷天外の女遊びは結婚してもなおらなかったため、浪花千栄子

は苦労することになります。

まず、渋谷天外は女中が作った物は食べないので、浪花千栄子

は食事には気を遣って苦労しました。

さらに、渋谷天外は給料を全部、女遊びに使ってしまう上、面倒見

が良いので、家には13人が居候していたため、浪花千栄子は

お金にも苦労しました。

「赤」と呼ばれた共産党員を連れて帰ってくるので、浪花千栄子

は恐ろしい思いをしながら、赤の世話をすることに。

その上、赤が25円もあれば、満州へ逃げられると言うと、渋谷天外

は千栄子に25円をこさえろと言うので、浪花千栄子はお金を工面

するため、質屋にも走っていたようです。

仕事の面では、渋谷天外は精力的に新作を書いていたようです。

昭和16年(1941年) 藤山寛美がいよいよ登場してきます。

S16年~S20年の 戦争時代をどない描くのかもポイントだと思わ

れます。