S37年 WWA選手権 3連戦「ブラッシー VS 力道山」 | HONDAのブログ

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2020年12月15日は S38年に亡くなった

「力道山」57回目の命日 力道山といっても

60歳以下の人にはわからないかな。当然 

銀髪鬼 ブラッシーもわからないだろう。

1958年(S33)に NWAから分派した NAWA

を発展させ 1961(S36)年暮れに 発足したのが

WWAというプロレス組織 初代王者を決める

トーナメントを勝ち抜いたのが 今回の主役

「フレッド・ブラッシー」

1921年生まれ 王者になったのは40歳

1961(S36)6月に 由緒正しい NWA世界王者

にブラッシーと同い歳の「バデー・ロジャース」がつき

ショウマンレスリングの全盛であったという時代背景

1960年に入り 米国での 戦後プロレスの 熱狂

的人気に陰りが見えてきた時代である。

WWAという組織を盛り上げていくため、インデアン

の血をひくJ・ストロンボー と 東洋人の グレート

東郷 は、「新しい血」=(東洋人、謎のマスクマン、

黒人)、を 王者にして人気をつなごうと考えた。そこで

登場するのが「正統派の東洋人」力道山ということで

あった。力道山も「インター王者」というお手盛りの

王座ではなく (本当は由緒正しいNWA王者がほし

かったがNWAからは 相手にしてもらえなかった) 

米国本土が認定する 世界王者になり 1964年

(S39)東京五輪の年自身40歳で すっぱり引退

を考えていたようである。

WWAの考えたストーリーは 1962年(S37)3月

ロスでブラッシーは力道山に敗れ 5月東京で再戦 

7月に ベルトをロス(ブラッシー)に返してもらう

(5ケ月 力道山に ベルトをあずけるのに 莫大

な保証金を日本から引き出す) ロスに返ったベルト

は マスクマンの デストロイヤー、黒人の B・ライト、

白人のブラッシー、東洋人の力道山 等で 話題を

作ってたらい回ししておけば 2年くらいは 興行は

盛り上がると考えていたようである。

そんな 時代背景で行われたのが 力道山 と

ブラッシーの 3連戦 

https://youtu.be/LeIu4mj4iz4

(この番組は 力道山 没20年 1983(S58)に 

放送された ブラッシー62歳)

 

<3月の第1戦>

力道山が  敗戦国日本からやってきて 空手を使う

ストロングな男を演出する。

<5月の第2戦>

東京の戦いは「アメリカには放送されない」のだから

力道山の「お好きにどうぞ」というスタンスの試合。

(ブラッシーがハッスルし過ぎたため TV観戦の老人

がショック死)という 副産物まで生んでしまった。

私は 7歳の春 3月に やっと自宅にTVが着て 

4月~小学校2年生 この ブラッシーVS力道山 

戦は ON TIMEで TVで観たかすかな記憶が

ある。ショック死事件により 小学校で「プロレスは

見ないように」というプリンが配られた記憶があります。

<7月の第3戦>

ショック死事件があったので このフィルムはON 

TIMEで見ていません。 試合前に「新しいチャン

ピオンベルト」の紹介と、この試合の勝者に 

次期挑戦者として「ザ・デストロイヤー」が紹介

されています。この時点では 後に来日して 

力道山の 最後のライバルとなるとはだれも

思ってなかったかもしれませんが次の 王者

は「デストロイヤー」に移るという予告の臭い

がプンプンします。 結局「大して流血」もして

いない 力道山 が Dr.ストップされて 

「予定どうり」ベルトはブラッシーに戻ります。

第1戦も 同様でしたが「敗者がインタビュー」

受けるという プロレス的画面ですが 力道山

(G東郷)のインタビューは 慣れていないのが

まるわかり でしたが 第1戦の ブラッシーの

インタビューはさすが、千両役者でした。

そして20年後のインタビューでも ブラッシー

のトークはさえわたっています。ブラッシーの

名誉のためにも 実際は自分の試合で「ショッ

ク死」が起こったことには心を痛めていたとい

うことです。