第6回「ブラHONDA」京都きぬかけの路 | HONDAのブログ

HONDAのブログ

ブログの説明を入力します。

 
4月7日(土)一気に寒くなった日に 阪急嵐山~嵐山電鉄

で 仁和寺の御室桜観光にいきました。金曜が雨だったので

桜も一気に散ってしまったのかもしれませんが 仁和寺の

御室桜は遅咲きということなので 京都に1泊していくこと

になりました。まずは 阪急京都線で桂で乗り換え嵐山に向

かいました。気温は寒かったですが まさか雨は降らないだ

ろうと油断してたのが、

嵐山の渡月橋を歩いていると 雨が降ってきました。

嵐山散策は中止しほうほうのていで京福電鉄嵐山線に乗って

 帷子ノ辻駅で乗り換え 北野線で 御室仁和寺へここでも 

雨はやまず

でしたが すごい観光客で やっぱり京都はすごいな。。

と 御室桜は 半分は散っていたようですが、

さすがにきれいでした。ここで相当な時間をすごし、

北野白梅町駅 から 歩いて 堀川通りの京都シティーHO

TELにチェックイン とにかく寒い ここ大浴場があるの

で助かりました。

「京都 きぬかけの路」

8日(日) 堀川通りの 京都CITY HOTELを 

10時にチェックアウトして 堀川通りを北上する 20分程度

いくと 北大路にでる 北大路を左折してほどなくすると 
大徳寺(臨済宗) 東側の入り口を入ると 右手に 2階層を 

千利休が寄進したといわれる 山門この 山門の2階の中央に 

「利休像」を置いたことを石田三成らにいいがかりをつけられ 

利休は結局 切腹することになる。


一概に 大徳寺と呼ばれているが いくつもの 別院が 

かたっまて配置された 寺の集合体のようになっている 

大徳寺は 内部拝観はおこなっておらず 基本 公道を歩く

のみであるがとても広い。 利休切腹前信長の葬儀は、

天正十年(1582年)10月に、秀吉が大徳寺で行った・・・

というのは、今や日本史の常識になっている。
清洲会議で織田家後継者に決まり、列席していれば名前が出

てくるはずの三法師も、葬儀に出たとする史料がない。

織田家の主だった人々は、この葬儀には出ていないのだ。

秀吉が行った大徳寺の葬儀が、唯一にして公認の信長の葬儀

のように伝わっているのは、ひとえ...にこの後政権を握った

秀吉の情報操作の賜物であり、後世の私たちも秀吉マジック

の呪縛から逃れられずにいる・・・ということか。
実際は、大徳寺の葬儀は秀吉が独断で行ったものだし、織田

家の人々が出ることなど秀吉自身初めから期待してもいなか

ったのではないだろうか。この葬儀の喪主は、一体誰が務め

たのだろうか?
実際に葬儀において喪主としてふるまっているのは、どう見

ても秀吉自身だ。もうひとつ、秀吉が葬送の儀式で位牌を持

っていることにも注目したい。位牌は喪主が持つもの、とい

う常識は、現代の葬式での話だが、当時でも、少なくとも

葬儀において中心的な役割をする人物の役目であることに変

わりない気がするのだが・・・
秀吉はそれまで織田家と直接縁のなかった大徳寺に、開基を

自分自身の名にして信長の菩提寺(総見院)を建立し、気前よ

く銀千枚を払って墓を作らせている秀吉は何故信長の葬儀の

場に、数多くある信長ゆかりの寺の中で敢えて大徳寺を選ん

だのか?秀吉にとって大徳寺の葬儀は、もはや信長の死を悼

む会でも、勝家を出し抜くためでもなく、天下への野望を

日本中に宣言するためのセレモニーそのものだった・・・

そんな気がする。信長の葬儀の莫大な費用を捻出するにあた

り、スポンサーはいたのか?など、この葬儀に絡む謎はまだ

まだ残されている.

大徳寺から 北大路に戻り 西に向いて歩く ここから 

なだらかな登り道となっている。1Kmほど 登り坂がだら

だら続き 昇り切ったところに金閣寺がある。何年ぶりだろ

う 最後にきたのはS55年くらいか?とすれば 約40年

ぶりくらいか?ここまでの路は人もまばらだったのに 

金閣寺に近ずくと急に 外人が多くなってきました。


金閣寺 臨済宗相国寺派の禅寺で正式には鹿苑寺という。
金閣は創建後、幾度も修理を行ってきたが、昭和25年の

放火により全焼。この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』

や水上勉の『金閣炎上』の題材となった。現在の舎利殿は

事件から5年後の昭和30年に復元されたもの。何年か前に

金箔が張り替えられたので 何かプラモデルでも観てるく

らい 金色がまぶしい。前のちょいと くすんだような

金閣のほうが趣があったように思う。今回きてきずいたが 

ここも 銀閣と同様に 京都の北の高台に建っていて 

木々がなければ 「夕佳亭(せっかてい)」から 京の町

が見渡せたのだろうなと思う。それにしても 外人の多さ

はどうだろう。
金閣を出て 「きぬかけの路」を 西に向かう ちょうど

昼どきであったのでガイドブックにある「オムライス」を

食べることにした。オムライス食べたあと きぬかけの路

を西に歩くとちょうど高台を歩いてるような感じで左手に 

立命館大学衣笠キャンパスがある「こんなはずれにあるん

や」と・・でも ここ毎日ここに通うの 大阪あたりから

やと大変やなと感じます。そうこうしてるうちに 今日の

「メーン会場」臨済宗妙心寺派の禅寺 龍安寺に到着しま

した。宝徳2年(1450年)、平安時代の貴族徳大寺家の

山荘を、室町幕府の管領だった細川勝元が譲り受け、

妙心寺の義天を開山に招き創建された。応仁の乱で全焼し、

勝元の実子改元が復興に着手。その後、細川家の菩提寺と

して、豊臣秀吉や徳川家などから庇護を受けた。ここは 

世界一美しいといわれる 石庭が有名ですが、ここにくる

のも 

2回目だが 「その庭」は私にはさっぱりわかりません。

世界3大名画  ベラスケス: 「ラス・メニーナス」 

レンブラント:「夜警」 ダ・ヴィンチ:「 モナ・リザ」
レンブラント:「夜警」は 本物見たことないですが 

ベラスケスの 「ラス・メニーナス」は 全く知識がなかった

私でも 本物を感じさせる絵画でしたが、この庭に「宇宙」

も感じないし ただの「庭」にしかどう見ても見えない。

(凡人たるゆえんかもしれませんが)