太平洋戦争(第十話)総力戦 | HONDAのブログ

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第十話 総力戦

 

 

 

 さてさて、無条件降伏を要求された日独は、最後まで戦い抜くための体制固めを始めました。

いわゆる「総力戦」の体制です。要するに、国民に犠牲を強いて、占領国から搾取するのが

「総力戦」です。枢軸国は、もともと貧乏ゆえに戦争を始めたわけですから、

アメリカの物量に対抗する手段は、これより他には無かったのです。 

 ドイツは比較的順調に行きました。ヒトラーやゲッベルスは、不利な戦況を虚心に

国民に訴えて、窮乏に耐える準備をさせました。軍需相のシュペーアは、お役所の厚い壁

を乗り越えて、ドイツ経済を戦争経済体制に移行させることに成功したのです。この過程で、

ロシア人は強制徴用されて工場労働や土木作業に従事させられ、フランス人は厳しい搾取に

よって、そのエンゲル係数が半減するという苦境に見舞われたのです。

 

 

 

 日本は、それほどスマートに行きませんでした。もともと10年近く前から大陸で戦争

ばかりやっているので、国民はとっくに貧乏です。占領地域からの搾取も、

とっくの昔にやっています。

 

 

 

 困った東条首相は、東京に占領地域の傀儡政治家を招いて、「大東亜会議」というのを

開きました。そして、ここで初めて太平洋戦争の目的が語られたのです。すなわち、

「白人の支配から黄色人種を解放する」という戦争の真の(?)目的が声高に謳われたのです。

 

 

 

 どうして日本政府は、開戦前に、立派な大義名分となりうるこのスローガンを打ち出さ

なかったのか?誰もが不思議に思うところです。東条の狙いは、植民地からの搾取をより

円滑に進めることにあったのでしょう。しかし、頽勢が見え始めてからの大義名分は、

白々しいばかりです。戦略的思考が常に後手に回っている日本型政治のこの欠点は、

今でも少しも変わりません。ともあれ、インドから亡命してきた革命政治家

チャンドラ・ボースにとっては、この会議はチャンスでした。東条の言質を取って、

日本軍のインド侵攻を促すことが出来たからです。これが、インパール作戦に発展するのです。

 

 

 

 その一方で、大蔵省らは、様々な通達や法令を、「国家総動員」のもとに発令して

いきました。税金のほとんどが、中央政府にいったん徴収され、その後、地方に配分される

システムが出来たのもこのころです。サラリーマンの源泉徴収制度が今の形になったのも

このころじゃなかったかな?

 

 

 

 このような全体主義的制度が、現在の日本でも多く残存しているのは、

すごく滑稽な気がしますね。

 

 

 

 また、マスコミによる情報操作は、ますます激しくなりました。軍部と結託した彼らは、

嘘の情報を垂れ流すことに専心します。もちろん、正義感のある記者もいたでしょうが、

軍部の厳しい検閲の下では、自由な活動など行なえませんでした。こうして、マスコミは、

ミッドウェー海戦を「日本の勝利」と発表し、ガダルカナル戦の結果を、

「十分な戦果を挙げた上での転進」と公表したのです。

 

 

 

 今でもそうですが、偉い役人というのは、自分の失敗を決して認めようとはしません。

薬害エイズ事件だって、管直人氏の活動が無ければ、闇に葬られていたことでしょう。

役人に国を任せると、このような恐ろしいことになるのです。

 

 

 

日本国民は、正しい情報を与えられず、黙って窮乏生活に耐えなければならなかったのです。

 

 

 

 また、搾取され、強制徴用させられた占領国の人々は、どれほどの辛い涙を流したこと

でしょう?この問題は、現在まで継続しています。

 

 

 

 ところで、日本とドイツは、どのような形で戦争が終ると考えていたのでしょうか。

最終的な勝利は、もはや望むべくもありません。

 

 

 

 残された方策は一つ。連合軍に大きな軍事的打撃を与えて、有利な政治状況を作り出し、

もって「無条件降伏」要求を撤回させ、少しでも有利な条件で和平を結ぶしかありませんでした。

 

 

 

 ドイツは、何度かそれに成功しかけています。クルスクの戦い(対ソ連)、

バルジの戦い(対アメリカ)などです。結果的に押し負けたものの、

戦略的な着眼点は間違っていなかったと思います。

 

 

 

 日本はどうか?ヒトラーのような政治家がいなかったので、その方針は定見の

ないものでした。最初はガダルカナル、それに失敗するとソロモン、さらにはサイパン、

ルソン、レイテと、ころころ方針が変わり、その都度、準備不足が祟って敵に一蹴され

てしまうのでした。

 

 

 

 1943年の戦局は、ソロモン諸島とニューギニアを中心に戦われていました。

山本五十六は、この二つの地域を結ぶ要衝ラバウルに航空隊を結集し、北上してくる敵を

迎え撃ちました。一定の成果はあげたのですが、やはり暗号解読によって大崩れとなります。

まず、3月、ニューギニアへの補給物資を満載した輸送船団が、アメリカ軍の空襲によって

全滅します。いわゆる、ダンピールの悲劇です。この結果、ニューギニアの日本軍は、

飢餓にさらされ、言葉ではとても言い尽くせぬ苦境に見舞われるのです。続いて4月、

山本長官が、飛行機で前線を巡視中に、敵戦闘機に襲われて戦死します。

 

 

 

 いずれも、暗号を解読されたことによる悲劇です。しかし、海軍の担当者は、

「我が軍の精緻な暗号が、アメリカごときに破られるはずがない」と言い続けて、

内容を変更しようとしなかったのです。そして、誰も暗号局のこの姿勢を糾弾しようと

しませんでした。身内同士の庇い合いです。

 

 

 

このようなフヤけた姿勢が、多くの貴重な人命を奪ったのです。これは、

重要な歴史上の教訓だと思います。

 

 

 

 この間、無防備だった太平洋の島々は、圧倒的なアメリカ軍の攻撃によって次々に玉砕

していきました。日本海軍は、もともと日本近海での戦闘しか想定していなかったので、

アメリカが南洋委任統治領に攻めてくる事態をまったく予想していなかったのです。

タラワ、マキン、クエゼリンらの守備兵は、まさに捨石にされたのでした。

 

 

 

 新型空母10隻で増強されたアメリカ軍は、ラバウルとトラック島を空襲で無力化し、

いよいよ、その刃をサイパン島に向けてきました。

 

 

 

 その間、日本陸軍は何をしていたのか?

 インドを征服しようとしていたのです。