第4回「京都東山山麓北上ハイキング」 | HONDAのブログ

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3月は 南禅寺~高台寺 の 京都東山南下ハイキング

したので 今回は 南禅寺~ 銀閣寺 (哲学の道)北上

ハイキングとしゃれこみました。


 

今回は 嫁と2人で 6/25土 平安神宮にほど近い「京都

・平安の森」という ビジネスホテルと旅館を足して 

2で割ったような 大浴場のあるHOTELに投宿しまし

た。 25日は えらい雨で 「あしたも雨やったら」

どないしよう・・・と 思うてる間に 朝になりました。

26日日曜は朝から よく晴れてハイキングひよりでした。


 

10時ころ ホテルをでて まずは 南禅寺を右手に見な

がら熊野若王子神社へ ここは 西国1番札所 熊野

青願渡寺 におまいりにいきたいが 京からはあまり

に遠いので ここに分社神社を作ったそうである。


 

ここから 琵琶湖疏水の支流沿いに 「哲学の道」が始ま

哲学の道はもともと、1890年(明治23年)に琵琶湖疎水

が完成した際に、管理用道路として設置された道である。

当初、芝生が植えられている程度の道であったが、ここを

歩いて通行する人々が増えていった。明治の頃、文人が多

く住むようになり「文人の道」と称されていた。その後、

京都大学の哲学者・西田幾多郎や田辺元らが好んで散策し、

思案を巡らしたことから「哲学の小径」と云われたり、

「散策の道」「思索の道」「疏水の小径」などと呼ばれた。

1972年(昭和47年)、地元住民が保存運動を進めるに際し、

相談した結果「哲学の道」と決まりその名前で親しまれる

ようになった。これにちなみ、1981年(昭和56年)に道の

中ほどの法然院近くに、西田が詠んだ歌

「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く

道を 吾は行くなり」

の石碑が建てられた ということらしい。

やたら 猫が多い 誰か 餌をやってるんやろな、猫の

一大生息地になっている。しーずんでないのか あまり

人は多くない おしゃれなCFFEが点在する。そうい

えば 10年ほど前まで 「燃えよ剣」の土方役で有名

な「栗塚旭」もこのあたりで「喫茶店」をやっていたと 

聞いたことがある。

 

1Hほど進むと 対岸に 「法然院(ほうねんいん)」

の 案内があるので よってみる ここの

寺の起こりは、鎌倉時代に、法然が弟子たちと共に

六時礼讃行を修した草庵に由来するという。

江戸時代になり、延宝8年(1680年)に、知恩院の第38

である萬無が、法然ゆかりの地に念仏道場を建てること

を発願し開山したという。 知恩院が 浄土宗の総本山

であるが総本山の夜明け前の 僧院ということになるのか。

ちょいと疲れたので Cafeeに入る アンチークな

カフェアイスコーヒーでのどを潤す。

となりで 台湾人みたいなのが カレーを食べていた。

ここから 一気に 銀閣寺まで歩く。

「銀閣寺」何年ぶりだろう? たぶん S52年ぐらい

にきたのでかれこれ 40年ぶりか。。。

正式には 慈照寺(じしょうじ)は、京都府京都市左京

区にある、臨済宗相国寺派の寺院。相国寺の境外

けいがい)塔頭である。室町時代後期に栄えた東山

文化を代表する建築と庭園を有する。

室町幕府8代将軍足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)

を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣

(ぎんかく)、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺

(ぎんかくじ)として知られる。

「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録

されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)

とあわせて京の三閣と呼ばれる。

山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は足利義政、

開山は夢窓疎石とされている。

ここには 金閣にはない 東山山麓の眺望台があり

そこに登ると銀閣の庭園はもちろんであるが、京都市街

がよく見えて気持ちがよい 足利義政 は 朝はこの

眺望を眺め 夜は銀閣の楼から東山の月をめでていた

のかなと思ったりした。

銀閣をじっくり拝観に 坂をゆるりとおりていくと 

白川通りであるお昼ご飯と思うてたら 一転にわかに

空模様があやしくなり 雨がパラパラしてきたので 

白川通りのバス亭から 循環バスに乗り込み荷物を

あずけている HOTELにまいもどてきた。

バッグの中の パンを食べて なんとも貧相な昼

ごはんとあいなりました。

 

HOTEL=>京都駅に 無料バスがあるとのことで 

その時間つぶしにHOTELのとなりにある金戒光明寺

(こんかいこうみょうじ)は、京都市左京区黒谷町に

ある浄土宗の寺院。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。

通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。

知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つであり、

また京都四箇本山

(他に知恩院、知恩寺、清浄華院)の一つである。初めは

念仏道場として利用されていた。金戒光明寺は徳川初期に

同じ浄土宗の知恩院とともに城郭構造に改められていた。

幕末に会津藩主松平容保が幕末の文久2年閏81

1862924日)に京都守護職に就任すると、京都守

護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し

1年おきに交替した。会津藩士のみでは手が回りきらな

かったため、守護職御預かりとして新選組をその

支配下に置き治安の維持に当たらせた。慶応3129

186813日)、この年の10月に行われた大政奉還後

の王政復古の大号令によって薩摩藩・長州藩が京都市中

の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもっ

て廃止された。ここ黒谷の地で、鳥羽・伏見の戦いで

戦死した会津藩士の菩提を弔っている。

なお、このころ中間として出入りしていた侠客が

会津小鉄こと上坂仙吉である。 

余談だが、1994年1月15日公開の

新極道の妻たち 惚れたら地獄』のラスト

シーンはこのお寺で撮影されている。

 なかなかの 大寺院であり 人もまばらで とてよよい

散策であった。


 

京都駅についたのが 18:00頃 娘と落ち合って 

京都駅で 家族でひさびさの 夕食を京料理ですます

ことができた。

梅雨どきであることも関係してか いつも人でにぎわう

京都東山であるが今回は なかなかによい散策で

あった。