◆保坂和志『残響』中公文庫、2001年11月

「コーリング」と「残響」の2作品が収められている。この二つの作品は、他の保坂作品とちょっと異なっている。というのも、他の作品なら、「僕」といった中心人物がいて、この「僕」が語り手となって、世界や時間について思考したり、周囲の人との交流を語っていた。しかし、「コーリング」と「残響」には、「僕」のように物語の中心となる人物がいないのだ。他の作品では、「僕」を中心とした空間(=家)に登場人物が集まってくるのに対し、「コーリング」と「残響」は反対に登場人物たちは拡散しているといえる。このベクトルの方向の違いは何なのか。

「残響」について、石川忠司は「隔絶」された人間どうしの「交歓」について保坂が問題にしているのだという。

《 保坂和志はその迂回しながらテレッテレッと続いていく文体のせいで小島信夫・田中小実昌のラインで語られる機会が多い。あとたまに深沢七郎とかベケットとか。しかし初期の探偵小説/推理小説からまるごと犯罪と殺人をとりのぞき、神が立ち去ったがため絶対的に「隔絶」されてしまった、そんな人間どうしの「交歓」にかんする問いを純化した功績において、保坂は確かにポーやコナン・ドイル、そしてベンヤミン直系の小説家である。近現代ならではの「さびしい」問い、ぼくたちにとっても切実な問いを追究している書き手なのだが、では保坂は『残響』ではこの問いかけに対し一体いかなるタイプの結論を与えたのか。(p.194)》

この読みはその通りだと思う。

二つの作品は、ともに登場人物が入れかわり立ち替わり変化する。複数の物語が、同時平行的に語られていくわけだ。とはいえ、ではこれら複数の物語が「隔絶」してしまっているのかといえばそうではなく、何らかの形でつながりがあるように見えてくる。それはなぜなのかということを、たとえば「残響」の登場人物の「野瀬俊夫」は考えていたりもする。そのとき、野瀬が映画やビデオのような機械的と人間の違いで考えているのは興味深い。

保坂 和志
残響