◆江藤淳『決定版 夏目漱石』新潮文庫、1979年7月
1部、2部、3部で構成される。1、2部では、漱石の「暗い力」すなわち存在の不安と「我執」すなわち「エゴイズム」の関係について、主に「こころ」「道草」「明暗」を取り上げ論じている。3部では、漱石とイギリスの世紀末芸術、それから有名な嫂の「登世」について論じている。

ここで、嫂の登世がいかに漱石文学に大きな影響を与えていたのか、かなり熱心に江藤は論じているのだが、漱石の登世への執着よりも、むしろ江藤の登世へのこだわりのほうが気になってしまう。嫂に恋をしてしまう「禁忌の恋」という主題に、江藤が執心しているのは、やはりそこに自分の願望があったからなのではと。江藤は、本文のなかで、「漱石の恋についての所説は、私の眼からみると、ほぼ正確に論者の人間観を反映しているように思われます」(p.489)と述べているが、人間観だけでなく恋愛観も論文には反映しやすいと思う。人は、つい自分の理想の恋愛を研究の対象に反映させてしまうのではないか。だから、嫂という存在がいかに男にとって性的な存在となるのかを熱く語る江藤に、漱石以上に興味をもってしまう。江藤曰く、「同居している嫂と、同居していない嫂とでは、その意味合いがまったく違います」(p.491)とのこと。そして、なにより嫂は「若い娘」であるだけでなく、配偶者である兄と性生活を持っている。したがって、思春期にある義弟にとっては、大きな関心をそそる女性となると主張している。ましてそこにタブーがあるのだから、なおさら漱石の嫂に対する恋は「深い恋」になるというわけだ。

とはいえ、こうしたモデル探しは、案外退屈なもので、江藤が嫂に熱心にこだわるほど、それを読む方は飽きてしまう。

江藤 淳
夏目漱石―決定版