◆芹沢一也『ホラーハウス社会 法を犯した「少年」と「異常者」たち』講談社、2006年1月

本書は、「知」の暴走あるいは「善意」が暴走する社会を論じているといえる。データでは少年による凶悪犯罪や精神障害者による犯罪など増えていないのに、ショッキングな事件が起きると、それを過剰に問題視するメディアに対する批判は、最近いろいろなところでなされている。本書もこうした問題意識を持ちつつ、近代における少年犯罪や精神障害者による犯罪対する法制度の歴史、それらの語られ方すなわち言説分析を行う。これを一言でいうならば、「治療から監視・隔離へ」(p.186)の歴史だったとまとめられる。

そして、現代社会はどうなったか。秩序や安全を守るという「善意」のもと、人々は管理社会を作っている。根拠無き「不安」が語られ、管理や予防という名で人権や自由が奪われる。くり返すが、これが「善意」のもとで行われてしまうのが厄介なのだ。さらに、不安が日常化した現在、「治安が悪化しているわけでもないのに、まだ遭わぬ犯罪への不安を掻き立てられ、安心で安全な街づくりをするために、自治体、企業、地域が一体となって治安管理へと邁進している」(p.206)。そして、絶えず不安を作り出しては、監視や予防が強化される。管理の強化は、安心を得るどころか逆に不安を増してしまうという皮肉な結果に陥るだろう。

だが、さらに問題なのは、ここに人々が「快楽」を感じているかもしれないことだ。社会の秩序を脅かす逸脱者を発見し排除することに、人々は「快楽」を感じているのではないかと著者は批判する。著者は言う、「わたしたちは安全で安心な街づくりを行っているのではない」「恐怖を快楽として消費できるホラーハウスをつくっているのだ」(p.216)と。

《 秩序と排除とが危ういバランスで均衡しているこの社会で、住民たちは警察の視線を嬉々として受け入れ、多くの人が警察官であるかのようにふるまっている。善意と一体感とやりがいが与える快楽に喜びを覚えながら、不審者はいないかと、警戒の目を光らせ歩いている。(p.217)》

著者は、このような「善意」と人々の一致団結ぶりに「違和を表すために」、本書を書いたという。この批判はなかなか鋭く、興味深いものだった。批判はもっともだと思う。それでも、あえて穿った読み方をしてみるならば、本書これ自体もまた「不安」を語ってしまっていないだろうか。つまり、とんでもない監視社会が生まれつつあるぞ、現代社会は「ホラーハウス」となってしまうぞと。ミイラ取りがミイラになってしまうように、本書もまた、監視社会の登場という「不安」を結果的に煽ってしまうことにならないか。「ホラーハウス社会」というタイトル自体に問題があるように思う。

芹沢 一也
ホラーハウス社会―法を犯した「少年」と「異常者」たち