おれの手には、薄桃色のノートがある。これは日記だ。
しかし、おれのものではなない。
人の日記を覗き見ることは禁忌。
人に見せてはいけない内容が、書かれている可能性もある。
おれは好奇心が抑えられずこっそりと持ち出し、トイレの中で拝見することにした。
3月6日──晴れのち曇り、私は元気。
気まぐれに日記を書こうと思う。
この頃、めっきり意欲というものが無くなってしまった。
何をしてもつまらない。
そんな私を心配した家族は、私を楽しませようと無理をする。
旅行は楽しい。デパートに買い物へ行くのも、公園へ行くのも楽しい。けど胸に空いた穴はちっとも塞がらない。
3月25日──晴れ、桜が咲いた。ようやく、春が来た。
桜が咲き、外から人の声がたくさんするようになってきた。
私は嬉しく思った。
今年も庭から美しい桜が見られて。この喜びをあの人に届けられるのなら。
4月13日──雨、桜がちってしまう。
ここ2日ずっと雨が降っている。ざぁざぁと音をするほど、強く降っている。
この雨じゃあ、桜が散りそうねとあの子は言った。
悲しくて、私は自分の部屋から桜を見ていた。
6月8日──曇りのち雨、梅雨入りした。
ジメジメする季節が来た。私は雨が大嫌いだ。
暗くどんよりとした雰囲気が気持ちも暗くする。
けどあの人は、雨が降るたび笑って恵みの雨だと言っていた。
草花や作物が育つのなら雨も悪くない、のかもしれない。
7月7日──曇りのち晴れ、天の川を渡れただろうか。
今日は七夕。織姫と彦星が年に一度だけ会える日。
昼間は曇っていたが、夜になると一変して晴れてくれた。 2人は会えただろうか。
私もあの人に会いたい。 あなたに見えているだろうか。
私も家族もみんな元気でいるよ。
8月10日──晴れ、庭のひまわりが咲いた。
あなたによく似た、ひまわりが今年もたくさん咲きましたよ。
まるであなたが近くにいるようで、なんだか嬉しくてつい外を眺めてしまう。
家族はそんな私を気にしているようだ。昼はひやむぎ、夜はカレーを食べた。
あなたの好きなものでしたね。今では私の好物になりましたよ。
ガタンと音がして、トイレの外に人の気配を感じる。
おれは夢中になって、人の日記を読んでいたようだ。
字体からこれを書いた人は、かなり堅物な印象がある。
おれもこの人を怖い人だと思っていた。
トイレの外からは依然として人の気配がする。
おれは最近書いたと思われる日記を、最後に読むことにした。
12月1日──晴れ、私ももう少しで。
2ヶ月ほど前に風邪を拗らせてから、以前よりも意欲がわかなくなった。
思うように体が動かなくなっている。仕方ない。私はもうおばあちゃんなのだから。
もう少しであなたの誕生日ですね。
もし、私があなたのそばに居られるのなら、たくさん話したいことがあるんですよ。
もう少し、もう少しで会えますね。長期の遠距離でしたね。時間が早く感じる歳だったはずなのに、あなたがいないだけで1分がとても長く感じましたよ。
もう手が震えて字も書けなくなってきました。
もし、私が死んでこの日記を誰かが読んだりすることがあれば、私は化けて出てこなければなりませんね。
何故なら、あなたに向けた最後のラブレターですもの。
謙三さん、愛しています。そっちに行ったら抱きしめてくださいね。
バンッ!とトイレの外から扉を叩かれる音がした。
おれはびくりとして急いで日記を服の中に隠す。
「ちょっと!圭介、トイレにいつまでこもってるの。サボる気なら後で覚えておきなさいよ!」
バンバンと大砲のように叩くのはおれの姉、香澄。
「わ、わかったから叩くのやめてよ!ねえちゃん」
おれはトイレをしていた風に装い、流して外に出る。
そこには顔を真っ赤にした香澄が腰に手をあて仁王立ちして立っていた。
「あんた、弟のくせにサボるなんていい度胸じゃない!」
「いててててっ。ねえちゃんのせいでうんこ、引っ込んだじゃん!」
耳を引っ張る姉にぼくは嘘の抗議をした。
「嘘。絶対に嘘。お前のうんこ臭いもん!どうせサボるための言い訳だろ。おかーさん、圭介がー」
「臭くねぇーもん!ねえちゃんがおれの耳引っ張んのが悪いんじゃん!」
ぎゃあぎゃあとおれらが騒いでいると、奥の居間から母親が顔を出す。
「そんなこといいから、早くこっち手伝いなさい!」
母の怒号が飛び、おれたちの些細な喧嘩はそこで強制終了した。
この家は櫻子ばあちゃんと謙三じいちゃんが暮らしていた家。
日本っぽい家って感じでおれは好きだった。広い庭、畳の匂い。
けど櫻子ばあちゃんはいつも怖かった。特に礼儀作法に厳しい人。
「おじゃまします」「ありがとうございます」「いただきます」「ごちそうさま」から靴を揃えることや、正座で座らないと足をぺしんと叩かれたこと。
常に着物を身に着け、無表情のばあちゃんが怖くて仕方なかった。
けどばあちゃん家に来ると、いつもおれとねえちゃんの好きなご飯が出てくる。
「おいしい、おいしい」と食べるとうっすらではあるけど、ばあちゃんが笑っていることはおれとねえちゃんは知っていた。
そんな櫻子ばあちゃんが亡くなった。謙三じいちゃんの誕生日をやった翌日に。
「まるで寝てるみたいね」と母ちゃんは言った。
葬式が終わりばあちゃんの家は売りに出すと両親がいい、今日はその片付けをしている。
そんなときに見つけたのが、ばあちゃんの日記。
むかし、ねえちゃんの日記をこっそり見て死ぬほど怒られた経験がある。
見てはいけないものだが、あんなに厳しく怖いばあちゃんが柔らかい笑みを浮かべて書いていた日記を読んでみたかった。
おれやねえちゃんがどんなに頑張っても、ばあちゃんにあんな表情はさせられない。
日記を読んでわかった。おれが生まれる前に亡くなったじいちゃんは、ばあちゃんを幸せにしてくれていた人だと。
おれは、片付けをしている母に訪ねた。
「なあ、母ちゃん。じいちゃんってどんな人だった?」
「おじいちゃん? そうね……優しくて笑顔が絶えない人。陽気な人っていうの?夏になると麦わら帽子をかぶって、庭にひまわり畑を作って、おばあちゃんに見せていたよ」