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ー「江戸商人の経営哲学」(日本工業新聞社刊・絶版)を読むと、松坂屋、高島屋もみんなが困っている時に、大きな発展のきっかけを掴んでますね。
茂木 松坂屋は、祐道が「大坂夏の陣」に出陣し、最期を遂げた後、一度店を閉じています。そして、遺児・祐基が、祐道の遺志を継ぎ、ゆかりの地・茶屋町に呉服小間物問屋を再開するのですが、開店してわずか五十日で、大火で店が燃えてしまいます。
「さあ、これからだ」と思っていたところで、店を失うのですから、普通なら落胆してしまうところですが、祐基はすぐに京都に出掛け、衣服や呉服を仕入れて、原価に近い値段で売った。
大火でみんな家を失い、着る物もなく困っていた時に、松坂屋は儲けを考えるのではなく、安い値段で売ったから、店にお客様が殺到した。
ここで、祐基は「薄利多売」と「奉仕の精神」で商いをすれば、お客様は買ってくれると商売のコツを掴んだ。
それが後になり制定された「人の利するところにおいて、われも利する」という「掟書」の精神につながっていると思います。
顧客満足経営の元祖
三井高利
ー「先進11社にみる顧客満足経営」中でも、三井高利を「顧客満足経営の元祖」だと言ってますね。
茂木 三井高利の足跡を調べて、高利こそ「顧客満足経営の元祖」だと思ったからです。CS経営は、アメリカから“輸入”されたのですが、高利は江戸時代にお客様満足を第一に考えた商いで大成功をおさめた。
江戸時代の豪商は、なぜ成功したのか。金儲けがうまかったからなのか、それをテーマに書いたのが「江戸商人の経営哲学」です。
ーそれで分かったことは、どんなことですか。
茂木 江戸時代には「始末・算用・才覚」が「商いの三法」と言われていました。つまり無駄遣いをしないで倹約すること、算盤に合うかどうかを見極めること、そして発想・アイデアーこれが商いに成功する秘訣だと……。
確かに「商いの三法」は成功の必要条件ですが、江戸時代に成功した豪商を見てみると、それだけではない。その前に、お客様にどうしたら喜んで貰えるか、満足して貰えるかということをまず考えて、商いをしています。その上での「始末・算用・才覚」なんですね。その気持がない店は、永く続いていない。
近江商人の「三方よし」
茂木 近江商人というと、朝早くから夜遅くまで天秤棒を担いで全国を行商して歩き、その勤勉さが今日「近江商人」と畏敬される存在になったと思われていますが、それだけではない。
行商というと、野菜や魚のイメージがありますが、当時近江商人が売っていたのは「近江の千両天秤」と言われるように高級品です。それを誰も知らない土地で行商して売り歩くのですから、簡単には買ってくれません。
近江商人は、自分の商品を買って貰うために、まず相手のお客様がどうしたら、よくなるかを考えた。例えば、北海道では、どうしたら魚をもっとたくさん獲ることができるかアドバイスし、船を買う資金まで調達し、獲った魚を帰りに関西で売ってあげた。
その結果、お客様も近江商人の持ってきた商品を買うことができた。行きと帰りで商いをするいわゆる「のこぎり商い」をして豪商の座を築いていった。
近江商人の商いの哲学は「売り手によし、買い手によし、世間にもよし」の「三方よし」と言われてますが、これこそが顧客満足経営の発想の原点だと思います。
だから、勤勉なだけではなく、このような哲学を持って商いに励んだから、「近江商人」として一目置かれる存在になった。
江戸時代の豪商には二つの型がある
ー江戸時代も、バブル景気が崩壊して、顧客満足を目指した豪商が現われたと書いてますが、現代と似ていますね。
茂木 江戸時代の豪商には二つの型がある。一つは紀伊国屋文左衛門に代表される投機型の豪商、もう一つは三井高利に代表される庶民を相手に成功した豪商です。江戸時代の約二百七十年のうち、成長を続けていたのは前半の約百年だけで、あとは成熟期、衰退期と続くのですが、顧客満足を第一に考えた商人が豪商として本格的に登場するのは、成熟期に入ってからです。
成長期は、江戸の建築ブームに乗って、幕府の役人と結託して豪商の座を獲得した紀伊国屋文左衛門などの材木屋が脚光を浴びました。
この時は、現代のゼネコン汚職と同じような癒着構造があった。悪事が露見し、勘定奉行の荻原重秀は失脚、それで紀伊国屋文左衛門も豪商の座から滑り落ちてしまい、最後はどこで死んだか分からないという一生を送っています。
ー今のゼネコン汚職の原形が、ここにあったという訳ですね。
茂木 綱吉の時代の元禄時代は高度成長を続けたのですが、それを支えていたのは幕府の積極的な公共投資です。綱吉は「犬将軍」として悪名高いのですが、一面で学問に熱心で信心深い人物でした。上野寛永寺、護国寺の造営、日光東照宮の修造などを積極的に進めたのですが、工事の発注が賄賂絡みだったため、非常に割高になっていた。
そんな放漫財政の結果、幕府の財政は逼迫してしまうのですが、その様子を新井白石は「折焚く柴の記」に、「綱吉の時代には、土木工事がしばしば起こって、材木の高騰するさまは、古来聞いたことがない。この頃は、『檜の木方一寸をもて、金の重さに比ぶるに、其価は金に倍々せし』などと申し」と書いています。
幕府の工事に使う檜の木が金の倍以上もするという異常な事態を引き起こしていた。「天の声」を発した勘定奉行の荻原重秀が在職中に懐に得た賄賂は数百億円にも上っています。
ーそれは、驚きですね。その元禄バブルが崩壊して、三井高利が庶民を相手に豪商の座を獲得する訳ですね。
茂木 その経過は、平成バブルが崩壊して、経営の原点であるCS経営が脚光を浴びている今の状況と、非常によく似ています。
三井高利のすごさ
ーそこで、三井高利は庶民を相手に「薄利多売」で成功をおさめる訳ですね>
茂木 「良品廉価・薄利多売」で成功した三井高利は、顧客満足経営の元祖であると共に、量販店の元祖ともいえます。
ーこの本の中で取り上げた豪商の中で、最も感動した豪商は誰ですか。
茂木 十四人の豪商を書き、それぞれに魅力があり惹かれるところがありますが、あえて一番と言えば、やはり三井高利です。
ー三井高利は、母親の影響を強く受けたようですね。
茂木 末っ子ですから、母親の殊法に一番可愛がられ、長く生活しましたから、商売のコツを小さな時から、身につけたんでしょうね。
しかし、殊法はただ可愛がるだけではなく、厳しい教育をしています。高利が十四才の時、松坂から長兄・俊次の店に手伝いに行くために江戸に向かう時に、現金は一銭も渡さなかった。
普通なら、金には不自由しないように、余分に渡すのでしょうが、殊法は路銀の代わりに、松坂木綿十両分の反物を渡し、お供を一人つけただけです。道中、その反物を売って宿賃や食費にしなさいという訳です。
その江戸に上る道中で、高利は商売のコツを掴んだのでしょう。江戸に出て、俊次の店でも素晴らしい働きをします。
ーところが、途中で松坂に帰されてしまいますね。
茂木 俊次は、いずれ高利が独立して自分のライバルになるのを恐れたのだと思います。松坂に残した母親の面倒を見るのは、お前しかいないと強引に戻されてしまう。二十八才の時です。高利は松坂で結婚するのですが、男十人、女五人の子供をもうけています。
ーエネルギーに溢れていた人だったんですね。
茂木 子供たちを長兄・俊次の店に奉公に出しますが、それが後に生きてきます。俊次が亡くなって、一カ月足らずのうちに高利は長男・高平に江戸の店を借りさせ、自分は京都に足を運び、仕入れの店の手当てをして、開店します。高利が五十二才の時です。当時は「人生五十年」の時代ですから、もう晩年という年に待望の店を江戸に出した訳です。
ー今だと、七十代というところですか。
茂木 私は、この三井高利の行動に、“夢”を持ち続けることの大切さ、偉大さを教えられ、感動しました。高利は七十三才で亡くなるのですが、その一生は高齢化社会を迎えた現代人にも大きな勇気を与えてくれます。
ー高利はいろいろな商法を打ち出してますね。
茂木 呉服物は高級品ですから、老舗の呉服屋は武士や金持を相手に、今のデパートの外商と同じように、お客様のところへ品物を運び、そこで商品を買ってもらったり、見本の品を持っていって注文を取るというやり方でした。それを「屋敷売り」「見せ物商い」と言うんですが、当時の商品の代金の決済は、盆と暮の年二回の節季払いです。掛け売りですから、代金がちゃんと回収できるかどうか分からない。だから、代金はどうしても高くなる。
その時代に、高利は店頭販売で「現金掛値なし・正札商法」を打ち出し、大変な人気を呼びます。現金売りで、仕入れた商品の支払いは節季払いですから、資金効率が猛烈にいい。だからいい商品を安く売ることが出来た訳です。
ー単なるディスカウントではない訳ですね。
茂木 安く販売できるシステムをつくりあげていたから可能だったのです。また当時は、反物でしか売らなかったので、手ぬぐいを作るにも何人かで共同で買い、それを分けるというのが普通だった。
しかし、不便だね、というお客様の声を聞いて、端切れ売りを始め、それがまた評判になった。さらに、反物を売るだけではなく、その場で急ぎのお客様には仕立てて品物を渡すというサービスもしている。
これらはすべてお客様の立場に立って、どうしたら喜んで貰えるか、という発想から生まれたものです。
ー顧客満足経営の元祖というのは、そのようなことからですね。
魅力溢れる豪商たち
茂木 高利についてはまたお話しますが、高島屋の創始者の飯田新七ちや大丸の下村彦右衛門の人間味溢れる生き方にも共感を覚えます。
飯田新七は隠居して、新兵衛を名乗りますが、その時に拵えた隠居所を「餘慶堂」と名づけています。これは易経の「積善の家に余慶あり」に因んでつけたものですが、その人生観を現したものだと思います。
また「大塩平八郎の乱」の時に焼き討ちを唯一免れた大丸の創始者・下村彦右衛門は「人は正直でやさしい心が第一」で、「心の奢りが一番いけない」とことを戒めています。この言葉には、含蓄があります。
松坂屋の伊藤祐道の最後も強烈です。祐道の父は織田信長に仕えた武士ですが、祐道に父とおなじように信長に仕えるんですが、「本能寺の変」で主君をなくしてしまう。
祐道は二君に仕えることを潔しとせずに、約三十年もの間閑居するんですが、関ヶ原の戦いで徳川家康が大勝したのを見て、武士を捨てて商いの道に入った。 祐道の店は順調にいっていたのですが、「大坂夏の陣」の時に、豊臣方に参陣し、武士としての最後を遂げてます。誰が見ても豊臣方の劣勢は明らかでしたから、祐道も生きて帰ることが出来るとは考えてなかったと思います。
この壮絶な生き方は、後の松坂屋の商いにも大きな影響を与えていると、私は見ています。「武士の商法」と言うと、からかい半分で言われることが多いのですが、江戸時代に商人道と言われる哲学があったのは、三井高利や伊藤祐道などに見られるように、先祖が武士だったことと関係があると思います。
ー武士道から商人道が生まれた、という訳ですね。
茂木 私は、そのことと深い関係があると見ています。
「長者に二代なし」と言われた江戸時代、その多くは一代で没落した。その一方で、老舗として何代も続いた店も少なくない。なぜ、そのような違いがでたのか。金儲けがうまかったからか、それとも金儲けのためには手段を選ばなかったからなのかー。
その疑問を解いてくれるのが、江戸時代の豪商である。なかでも、伊勢商人とならび称された近江商人の生き方は、私たちに大きな示唆を与えてくれる。
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「金持商人一枚起請文」 中井源左衛門
中井源左衛門(享保元年・1716年~文化2年・1805年)は、晩年になり新年を迎える度に「起請文」を書いた。神・仏に対する誓いの言葉である。このような考えで商いに励むので、神様・仏様力を貸して下さいという願いを込めた、今で言えば新年度の経営方針である。
最晩年の起請文は「金持商人一枚起請文」と呼ばれているが、源左衛門が書いたことは次のようなことであった。
「一、世間では『金を溜める人は、運がいいからで、金が溜まらないのは自分に運がないからだ』と言うが、それは愚かで大きな誤りだ。
運などというのは無いのだ。金持ちになろうと思うなら、酒宴や遊興、贅沢をやめて長生きを心掛け、始末第一に商いに励むより方法はない。他に欲深いことを考えると、先祖の慈悲にも、天地自然の道理にもはずれることになる。
ただし始末とけち(原文では「しわき」)とは違う。無知な人は、これを同じように考えているが、けちの光はすぐに消えてしまうが、始末の光は現世の極楽浄土を照らすものだ。
二、これを心得て実行する人が、五万、十万の大金ができることは疑いない。
ただし、国の長者と呼ばれるようになるには、運も必要で、一代でなれるものではない。二代、三代と続き、善人が生まれて、はじめて長者と呼ばれる家になる。
そのためには、陰徳・善事を積むことより方法はない。のちの子孫の奢りを防ぐために書した」
幼くして両親を失った中井源左衛門が、その時代を代表する豪商になり、中井家が何代にもわたり隆盛を続けることができたのは、このような心掛けで商いに励み、生きたからであった。
「自利利他は古来の家風なり」 飯田新七
高島屋は、天保2年(1831年)、京都烏丸通り松原上ル薬師前町西側で「たかしまや」として開店した。
創業者・飯田新七(1803年~1874年)は、創業に当たり、
一、正札
二、正道
三、平等の待遇
の三カ条を店の掟として定めた。
この掟は、第一義 確実なる品を廉価にて販売し、自他の利益を図るべし
第二義 正札掛値なし
第三義 商品の良否は、明らかに之を顧客に告げ、一点の虚偽あるべからず
第四義 顧客の待遇を平等にし、苟も貧富貴賤に衣りて差等を附すべからず
の「四つの綱領」として成文化され、いまも高島屋の店是として受け継がれている。
二代目・飯田新七は、「世間はいざ知らず、我店で取り扱う商品は、堅牢確実なものを売らんと決心し、染に織に十分な吟味を加え、もって客を欺かず、薄利に甘んじ、客を利し、併せて我も利し、いわゆる自利利他は古来の家風なり」と書き残している。
元治元年(1864年)、「蛤御門の変」で、京都は御所を中心に火の海と化し、民家28000戸が焼けた。市中の土蔵は1207戸も焼失。「どんどん焼け」と呼ばれた大火である。「たかしまや」の蔵は、風呂桶と四斗樽に水を張るなどの工夫により残った。
この時とばかり、阿漕な商売で儲けようとした店があった中で、「たかしまや」はどざくさに紛れて儲ける商いをしなかった。いくらでも儲けることができたのに、「たかしまや」は織屋・染屋と盟約を結び、いい品を安く売った。
そのことで、店の評判は一気に高まった。目先の利益を追うのではなく、お客様本位に徹したことが、「たかしまや」を大きく飛躍させた。
「自利利他は古来の家風なり」と二代目・新七が書いたのは、このことを踏まえてのことである。
なお、初代・飯田新七は敦賀、二代目は京都の生れである。
屋号は、初代・新七が養子となった先が、近江・高島の出身で米屋「高島屋」を営んでいたことに由来する。
「奢れる者かならず久しからず」 松居遊見
松居遊見は、明和7年(1770年)近江
国神崎郡位田村(五個荘)に生まれ、25歳で三代目当主・久左衛門を襲名した。遊見は法名。屋号は「星久」。
「出精専一之事、無事是貴人、一心、端心、正直、勤行、陰徳、不奢不貧是大黒」の家訓で知られる松居久右衛門の分家である。
位田村の庄屋が書いた記録によると、遊見は生涯絹布はまとわず、木綿や麻布の粗末なもので通した。外出、あるいは慶弔の集まりにも新しい木綿綿は着るが、絹布は着ない。煙草入れの緒は藁縄を用い、外出の時には雨でも草鞋を履き、雪駄や下駄は履かなかった。
「人は三度の食事と風雨寒暑をしのぐに不自由なければそれで十分だ」というのが、遊見の生き方であった。旅に出ても宿に着くと主人に藁をもらい、明日の旅のために草鞋をつくってから寝た。
家にいるときは早朝、村の神社や寺を一巡し、道に藁屑や古草履が落ちていれば田へ入れて肥料にし、木切れや枯柴を見つけると、拾い集めて風呂のたきつけにし、紙屑はメモ用紙として使ったという。
「奢れる者かならず久しからず」の言葉を、自分の肖像画に大書して家訓とした。
「しまつ」と「けち」とは違うと中井源左衛門は、「金持商人一枚起請文」で強調しているが、遊見は使うべき時には思い切って金を使った。
天保の大飢饉や東本願寺焼失、京都御所焼失では、それぞれ数百両を寄付。凶作で年貢を払うことのできない者がいれば、そっと代納するなど慈善行為には惜しまずに金を使った。
また、後進の有能な湖東商人には資金援助を行うなど、「エンジェル」の先駆けとも言うべき人物でもあった。
「実に珍しい人物だ」 塚本定次
勝海舟は「氷川清話」の中で、「江州の塚本定次という男は実に珍しい人物だ」と書いている。
「数万の財産を持っておりながら、自分の
身に奉ずることはきわめて薄く、いつも二子のはおりと同じ着物でいて、ちょっと見たところでは、ただの田舎の文盲なおやじとしか思われない」
「しじゅうおれのところへいろいいろの話を聞きにくるが、昨年もやってきて『私も近ごろ思いがけず四万円ばかり積み立て金ができましたが、せっかくできたものですから、なんとか有益な事につかおうと存じますけれど、自分ではどうもよい判断がつきかねますから、わざわざそのご相談に参りました。
まず私の考えるところでは、その一半を学校の資本に寄付して、その一半は番頭や、手代らが真実に働いてくれました結果ですから、それぞれの年功の序列多少に従うて、分けてやるが妥当だろうと思います』といったので、おれもその考えの尋常でないのに感心して、賛成してやった。
この男の考えの非凡なることは、けっしてそのときに始まったことではない」と、定次が所有地を公園にしたことや、「この男と、その弟正之は山林熱心家で、わが県下の山林のためにといって、二万円ばかり預けているそうだ。あれがいうには、『この二万円がなくなる時分には、山林もだいぶ繁殖してまいりましょう。だが、私はとてもそれを見ることができますまい。
しかしながら、天下の公益でさえあったら、たとえ自分が一生のうちに見ることができないといっても、その辺は少しもかまいません。私は五十年先の仕事をして置くつもりです』といった。
なかなか大きな考えではないか。かような人が、今日の世の中に幾人あろうか。日本人ももう少し公共心というものを養成しなければ、東洋の英国だなどと気どったところで、その実はなかなかみることはできまいよ」と、特別の人物であると賞賛している。
塚本定次(文政9年・1826年~明治38年・1905年)、二代目塚本定右衛門は、ツカモト株式会社の創業者である。
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近江商人は、始末して勤勉に働くだけではなく、「売り手よし、買い手よし、世間によし」の「三方よし」で商いに励み、陰徳を積んだ。これこそが、お客様の満足を追求することにより、企業の永続的発展を目指す「顧客満足(CS)経営」の源流であり、世界に誇ることのできるビジネスモデルである。
お客様、お得意様は商人にとっては、生きた福の神なのだ。
だから、お客様やお得意様がいらした時には、ありがたく大切にするのはもちろん、そのお陰を忘れないために、掛地にお名前を書いて、毎日拝むことによって神様のお加護もあるものだ。
富貴の地基
