イーサンの瞑想ひとりごと 3 | 静子の瞑想日記

静子の瞑想日記

月一度の瞑想会の主催をしています。日々の私の体験や感想など書いていきたいと思います

 他人の為に何かをするというのは気持ちのいいものである。しかしその事で金銭を受け取らない場合を無償の行為と言えるのだろうか。

 

 「善い事をした。気持ちがいい」と言う見返りはキチンと受け取っているのだから、それで決済はついていると言ってよいだろう。無償とは言えないかもしれない。

 

 瞑想による真の純粋意識の中には対象(他人)は居ないし、行為する人も居ない、と言うジニャーニ(覚者)の境地からすれば、「善い事をした。気持ちがいい」と思う人も居ないことになるのだが…  。「本来のわたし(真我)」の境地とはその様なものであろう。

 

 マインド(心)の世界で生きている「今の私」には、その様な事は起こるべくもないし、理解するのも難しいのだが、瞑想意識を進めて純粋化した意識の経験を重ねていくと、真我の実現は成らずともその境地が理解出来る。

 

 一般的に私たちは他人を救いたいという心、救済する行為を喜ばしい事と思っているが、ジニャーニは「元々人はすでに救われているのだ」と語っている。この事は常識ではとても理解出来ないことである。

 又「あなたはすでに真我(本来のわたし)なのだ」とも語っている(この事も理解は難しい)ところからみれば理解はしやすい。

真我に救いが必要であるはずもないのだから、納得出来る。

 

 しかし、マインドの世界に生きている「今の私(自我的自己)」にとっては「救済」はリアルな問題となるだろうが、これも自我的意識から発生した概念と思ってよいのだろう。

 純粋な意識の世界には救済すべきものは無いし、救済されるべきものも無く救済する人も居ない。

 

 この世界にはあらゆる概念は存在しないのだ。この事は瞑想実践の中で「気づかれる」ことで、一般的には理解し難く大きな誤解を招きやすいことだ。

 これは本来の意識で「観える事実」であり、現象界でマインドの世界で生きる私たちはこのことを否定、誤解することなく、瞑想によって純粋な意識の世界を識るまでは心においておきたい大切なことだと思っている。

        ( 2019、1)