生実散歩 ⑦ 城攻め・生実城(北小弓城) | 今更ながらの・・・人在日本身不由己

生実散歩 ⑦ 城攻め・生実城(北小弓城)

生実池の北側に広がる一段高い地形部分が戦国時代に生実城(北小弓城)があった地区である。生実池から土手で分離された蘇我池も元々は一つながりの水堀であった。

水鳥の泳ぐ蘇我池から望む本城跡。

 

 

 

 

現在は住宅地の中の公園になっていて遺構は一切残って無い。


市の立てた説明板が有るだけである。

 

 

 

 

東側の県道66号線側に回ると、森川氏城址石碑がある。これは江戸時代の生実藩主森川氏の陣屋があったからである。


旧城域内に生実神社があるが、境内の脇に空堀が残っている。

 

 

 

 

 

生実神社脇にも説明板が有る。


県道66号線に沿って更に約200mほど北に向かうと北小弓城(生実城)大手口の碑が立ち、土塁の一部が残っている。

 

 

 

 

碑の脇の祠には安永五年(1776年)と刻まれた石仏がった。安永三年には杉田玄白らが『解体新書』を刊行している。

なお、Wikipediaには以下の記述がある。
千葉氏は、上総国との境界付近の守りとして、南生実町に小弓城を築き、重臣原氏に守らせていたが、小弓公方にこれを奪われた。その後、1538年の第一次国府台合戦に勝った後北条氏方の原氏は領地を取り戻し、新たに北に2kmほど離れた生実町(北生実)に城を築いて、ここを本拠地とした。同時に、「おゆみ」の表記を「小弓」から「生実」に変えたものと考えられている。

ただし、近年の発掘調査で、北生実の城も室町時代には既に存在していた事が確実となり、実態としては2つの城を併せて「小弓城」または「生実城」と書き表していた可能性も出てきた。このため、北生実を本城、南生実を支城をとらえ、連歌師の柴屋軒宗長が入った小弓館や小弓公方も北生実にあったと考えるべきとする研究者もいる。

1590年に後北条氏が滅亡すると、この城は徳川家康のもとのなり、西郷家員が支配した。その後、1627年に生浜地区を中心とする地域の大名となった森川重俊は、生実城の一角に陣屋を築き、生実藩の政庁となった。以後11代240年にわたって森川氏の支配が続いた。

城の西側には重俊院があり、森川氏累代の墓がある。 」