錦糸町歴史散歩 その2 | 今更ながらの・・・人在日本身不由己

錦糸町歴史散歩 その2

さて、新徴組屯所跡(小笠原加賀守屋敷跡)は、現在はセブンイレブンになっていて、説明板などは有りませんでしたので、気を取り直して次に向かった場所は河竹黙阿弥終焉の地。
 
途中、家庭センター前の公園にあったのは母子像と言う名のモニュメント。どう見ても単なる石柱にしか見えません。(笑)

 

 

 
小さな児童公園の一角にあった説明板。
 
河竹 黙阿弥は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。本名は吉村 芳三郎。俳名に其水。別名に古河 黙阿弥。江戸日本橋生まれ。
明治26年(1893年)1月東京歌舞伎座『奴凧廓春風』を絶筆として同月22日、本所二葉町の自宅で脳溢血のため死去した。享年76(満年齢)。(以上、Wikipediaより)
 
 
その後は、区役所通りの1本西側の通りにある三遊亭圓朝旧居跡へ。
この場所には明治9年から11年ほど居住していて、「塩原多助一代記」を書いたとのこと。
 
初代三遊亭 圓朝は、江戸時代末期から明治時代に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉。江戸・東京の落語・三遊派の大名跡。円朝とも表記。三遊派の総帥、宗家。三遊派のみならず落語中興の祖として有名。敬意を込めて「大圓朝」という人もいる。(以上、Wikipediaより)
 


 
 
そして、南に少し下がって表通りに出ると目の前に見えた神社が野見宿禰神社。
 
野見宿禰
力士の始祖とされる人物。《日本書紀》垂仁天皇7年7月7日条に野見宿禰と当麻蹶速(たいまのけはや)の相撲譚がある。大和の当麻に蹶速という強力の人がおり,ならびなき天下の力士を誇っていた。天皇はこれを聞き,蹶速に匹敵する人を求めたところ,出雲より野見宿禰が召し出されて両者の力くらべが行われた。結果は野見宿禰が蹶速の肋骨,腰を踏みくじいて勝ち,以後野見宿禰は宮廷に仕えることとなる。以上は古代宮廷の年中行事で7月7日に行われた相撲節会(すまいのせちえ)の起源説話である。
(以上、世界大百科事典 第2版より)
 
 
しかし、表通りに面していると言ってもどう見ても社の裏側ですよね。
で、東側の区役所通り側に回り込んでみると鳥居はあるものの境内に入れません。そこで、ぐるっと回って西側から入ることに・・・
 
 
 

 
 
野見宿禰神社は、墨田区亀沢にある神社で、当社の東側に初代高砂親方の部屋があったとき、初代高砂親方の尽力により、元津軽家の屋敷跡である当地に明治17年(1884)に創建したそうです。当社は相撲の神様として野見宿禰を祀り、現在に至るまで相撲協会や関係者の崇敬を集めていて、境内には昭和27年(1953)に相撲協会によって建てられた歴代横綱の石碑があり、その1基には初代の明石志賀之助から46代朝潮太郎までの名前が、もう1基には47代柏戸剛以降の名前が刻まれています。
 
さて、今回の目的地は直ぐ近くですが「錦糸町歴史散歩 その3」に回します。
 
 
 
 
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