お久しぶり過ぎですね。

こんにちは。
 
ソースがはっきりしないんですが
「体感で人生は19歳までで終わってる。」的な事を
誰かが仰っていた記事を見て

「んなわけあるかーー!」と思ってたんですけども
今年明けてからですかね?
はっきりとそういう感覚が解ってしまったわけです。
 
このブログを見てくれてる人よりは
社会人になったのは俺の方が早いと思うんですけど
社会に出てからは色んな仕事に就いたり
今の仕事なら様々なジャンルを選んで
ルーチンワークにならないように
仕事をしてきました。
 
単調に過ごしちゃうとほぼ死んでるような気がして
なるべくなら良くも悪くも刺激が得られるように
してきたつもりなんです。
 
ですが!

飽きますね、色々と。
限界もありますし。
 
過去を振り返れば、当時の記憶が鮮明に蘇ることも
すっごい時々あるんですけど
ほぼ無感情になってきてるんですよ。
 
これはよい部分もあって感情が乗らない分、
客観的に笑い話に出来るトコもあるんです。
 
ただ、よく解らないのが
1~2年前の出来事より5~6年前の事が鮮明だったり
その場所を訪れると急に懐かしさが込み上げてきたり、と。
 
普段は全く考えてなくても、無意識下では
ちゃんと覚えてるんですね。
期間ではなく深さなんでしょう。
 
もう会えない、会わない人の事だって
その人と過ごした場所に行けば思い出せる。
 
忘れない事って必ずあるし
それは「いいこと」だと有難いんですが
この先、そんな風に思えることが
少しでも増やせるように
出来る限り単調にならないように
過ごしていけたらなぁと思います。
 
みなさんよりはきっと長くないでしょうからね><
 
それではまた気が向いた時にお会いできたらと思います。
最終回です。


ここ1~2年の間で家族間の話し合いが
少しずつ増えてきていて
多少の雪解けもありました。

ですが基本的に父親と俺の距離感は変わっていません。

ただ前回書いたように
父親と同年代の方が亡くなったという事実が
考えるコトを放棄していた事案を
頭の中で浮かぶようになりました。

もしかしたら親と接する時間が

自分が思っているよりも少ないんじゃないか?

と言う事です。


残されてる時間が
少ないかも知れないという考えは
焦燥感を煽るには十分な考えでした。

きっと親の立場になれば
俺はいい子供ではなかったと思います。

親孝行なんか殆ど出来ていません。

これからの人生にあたって
真剣に家族との時間を考えつつ
自分の人生を前向きに進めていけるように
そしてその姿を親に認めてもらえるように
過ごしていけたら、と思いました。

後悔のないように。
次回からの続きです。







多少重たいので苦手な方はこのタイミングで
ブラウザバックをお願いします。









今年の初めに知り合いの方がお亡くなりにました。

知り合いと言っても直接の面識は無いのですが

父と同年齢の方でした。


毎年、父に頼まれて年賀状作るのですが
その過程で割と珍しい苗字の方でしたので
印象が残っていました。

その日はたまたま実家に用事があり
実家に寄りました。

母に用事を伝え帰ろうとすると

「Hさん、亡くなったんだって。
 お父さんは今日、お葬式に行った。
 お父さんと高校時代からの知り合いだったのにねぇ。」

初めは「あ、そっか。」としか思いませんでした。

2~3日して年末に実家に行った時の
父の言葉を思い出しました。

「俺もそろそろ”終活”しなきゃなぁ。」

そのときには内心、

何言ってんだよ。殺しても死にゃあしねーだろうが。

なんて心の中で毒づいてました。


でも、Hさんの訃報を聞いたときに
いまだかつて経験の無いぐらいの
焦燥感にかられました。


ここで俺と父との関係について書きます。


中学ぐらいの頃から今に至るまで
父とはそりが合わない関係で
恐らく最後まで解りあえないと思っていました。

ですが、それは俺の自分に対する甘えかも知れません。

理解してもらえないなら
俺だって理解なんかしないよ!と。

俺が実家にいた頃、父は普段から
「俺はお前に大した事、しれやれなかったな。」なんて
自嘲気味に話していました。

~続く~
お久しぶりです。

色々と整理がつかない事があり

長い間、放置していました。


納得いかない事や日々の怒り、

悲しい出来事などを

こういった誰にでも見られる場所に

書き綴る事は嫌いな性分ですので

色々な事の整理がつくまで

ブログの更新を止めていました。



仕事ではいい事もありました。



ですが、これから書く話は少し重たいので

読まれることをオススメしませんが

全部で3回に渡って更新しようと思います。

本題は次回から書きます。


それではまた次回。





こんばんは。

人生的な何かなんすけども
最近よく考えるわけです。

1年があっという間に終わってることが
増えてきていて気づいたんです。

もし寿命を全う出来るとしても
一生なんてあっという間じゃない?って。

でもだからといって月並みに

「だから1日を一生懸命生きるんだ!」

なーんて事は言うつもりがないわけで。


多少、自虐的なんですが
歴史や人の心に刻み込めるような事は
何一つしてませんし

たかだか65億分の1なんですよね。


自分の事をいつまでも誰かが覚えていてくれるかどうかは
自分では解らないわけですよ。

だってそん時、俺は死んでますからねw

その辺、結構他人任せですね。

だから自分自身が「これでいいんだ。」って
思えるような時間の過ごし方を選んでるんだと思います。

何かを深く悩んだり傷ついた心が癒されなかったりしても
1世紀は続かないんですよ。

少なくとも関わってくれた人を不幸にしないように。

あとは自分が楽しんだら、それでいいのかな?って思ったりします。







まだまだ死ぬ予定はないですけどね。
もうね、暑さで毎日のように
やられていて・・・。


全然、元気ですけど!

今回は「何となく」VS「理屈っぽい」 です。


端的に言えば女性的思考と男性的思考です。


このステージにおいて俺はかなり
男らしいんすよ。

つまり理屈っぽいんですw

昔っから

「場面」
「その場のノリ」
「雰囲気」


といった抽象的概念が嫌いなんです。


感覚が冴えてる人は思いつきの行動でも
事後に説明出来るんです。


こんなやりとりが身近にあったりしません?

「何で?」って質問に対しての答えが

「自分でも解らない」
「何となく」
「良い(悪い)と思ったから」


アホなの?


自分が質問する立場で
こういう返答されたら
許せる人だけは、そう言っていいでしょう。


会った事ないっすけどね。


所詮、相互主義なんすよ。


されて嫌な事はしない。


されて嬉しい事は
他人にも分け与える。


感覚で処理して説明出来ない人は
他人に干渉すべきじゃないんですよ。


好きだの嫌いだので物事を処理してたら
お隣の国の・・・やめときます。


といっても後先考えすぎて何にもしなければ
何にも変わらないですし
難しいトコですね。



それでは本題に入ります。


ウソです、終わります。
前回はこちら→探究心のない奴は発言すんな。~2~

ちょっと間が空いてしまいました。


前回までで神=イエス=キリスト(救い主の意)

になっちゃうんじゃないかなぁという疑問を

解決にするに到らず持ち越しになった為、


さらなる探求をしてみました。


キリスト教を英語で言うと

Christianity

~~tyって付いてるってことは

Christian(クリスチャン)の集合体って感じになるんでしょうか?


本来、~~tyってのは

形容詞に付けて名詞に変えるわけですよ!


例えば、

Safe(安全な)→Safety(安全)

みたいな感じでして。


ただChristianを訳すとキリスト教の、だとか
キリストの、となるんですよ。

なのでChristianを形容詞として使うと

~~tyには意味がないので

そのまま訳すと

キリスト教状態、みたいな感じになるんすよね。


明らかにおかしいので・・・。

拡大解釈を思いっきりして意訳すると



キリスト(救い主)の教えを信奉する集団。

または、キリスト(救い主)に関連する物事全般。

って感じでしょうか。


これで一応、自分なりには納得したんですが

日本語って難しいですよね~。


文字だけでも漢字、ひらがな、
カタカナ、アルファベット、数字。

これだけ使いこなせるのに外国語の素養がおしなべて低いんです。

日本人て。


多分、大陸から分断されて言語もガラパゴス化して
あまりにも高度になりすぎてしまって
殆どの言語との関連性を失ったのでは無いかと思います。


例えば、英語、仏語、伊語、etc...はラテン語が原型で
綴りが似ていて意味もほぼ一緒といった単語が多数有ります。


今回の考察や勉強で得た事は、言語は正しく理解して
正しく使いたいと強く思ったことです。


日本人なんだからなるべく正しく日本語を使いたい。


これに尽きると思います。

長々とありがとうございました。    ~了~
前回はこちら→ 探究心のない奴は発言すんな。


引き続き書いていきます。

前回、「キリスト教」って呼称はおかしいというような
問題提起をしてみました。

今回は、解を探そうと思います。

遡ってみると日本国内で過去に
「天主教」や「耶蘇(やそ)教」と呼ばれていました。

”天主”というのは元来中国語から引用された言葉で
Deus=神を旧来の神々と識別するために
生み出された言葉のようです。

ここでまた壁にぶつかります。

Deusとイエスが同一人物なら
天主=イエスになりますので



「イエス教」???




己の宗教概念の無さがこんなにややこしくするとは・・・。


こっからまた暫く色々と調べることになります。

 
すると少し紐解けるような兆しが!


先ほど書いた”耶蘇(やそ)”。

これは”イエス”の発音が訛って伝わり

それで”耶蘇(やそ)”。



・・・・・・・・・・・・・


あれ?


このままだと所謂「キリスト教」が
「イエス教」という呼称が自然ってことに
なっちゃいませんかね。


次回以降、さらに追究していきたいと思います。
って誰かが言ってました。

こんにちは。

今日は調べ物をしてる過程で

キリスト教なる部分にぶつかりまして・・・。


テーマがデカいというか・・・。

強敵だなぁってのが感想です。


なので今回は2~3回に分けてお届けします。


事の発端はイエス・キリストと世界中で呼ばれている

この名称が固有名詞(個人名)では無いという所です。

ちなみにこの「イエス・キリスト」ってのは

”救い主(キリスト)のイエスさん(ユダヤ人 年齢不詳)”

という意味なんですね。



なのでそもそもキリスト教徒でも無い人間が

「キリスト(救い主)」って呼称を使うことに

果たして整合性があるんだろうか?と思います。


こんな感じの話をあと2~3回書きますので
しんどい人は


ブラウザバ~ック

それではまた。
こんにちは。

最近過ごしやすくなってきましたが

俺自身は就業時間が長かったり
日光を浴びないヴァンパイアのような生活をしていて
例年通り、基本的に体調はよくありません。

ただ、これって最早デフォルトなんで
全く気にならないです。


でもねー、あどでー、つま゛りでー

体調が低調(押韻)な時に
メンタルがガクっとくるとひじょーに
しんどいんですね。

これからはどんどん暑くなっていくし
活発にハキハキとメリハリ効いた生活を
目指していかないといけませんね。

つまりは心の持ち様なんでしょう。

俺はずっとこんな風にやってきたし
死ななきゃどうにかなると信じてますからね。

そろそろ復活しないとですね。

がんばります。