時間が作れる方は是非勉強会に行ってみてはどうでしょう?


保育、教育、子育て支援、などなど、親、子育てに関わる人、フリースクールやオンタナティブスクールをやってる人やこれから作りたい人、誰でも生きやすい社会にしたい人、学ぶ環境に関心がある人、人間関係、コミュニケーションを学ぶ人、人の心理・行動に関心ある人などなど、園長、校長、ぜひ。


なんにせよ、現状を知ること、「しょうがいと向き合っている現実と心に本当は言いたいことを抱えている人の言葉を聴くこと、教育の現場で何が起きてるのか知ること。」をが一番です。


そしてそれを聴いた自分の内側にどんな感情や考えが湧いてくるのかを見て見ぬふりをせずに自分自身が受け止めること。


しょうがいという概念を覆す必要があると思う一人です。

わたしの場合は保育の現場で、一人のクラス担任を持つ保育士として、または、園長として保育士に寄り添い見守り育てていく立場として、「共に育つ」を大切に共に育つ保育を実践してきた中で感じてきたこと、未来を今創る時、無くてはならない視点があると思っている一人です。


日本の保育、教育は、世界からみると(子どもの権利条約)虐待だと目に映るほど、管理支配体質で一つの価値観に合わせて競争と優劣で人格のランクを決めつけ可能性と主体性を潰す傾向にある、、、

子どもの権利条約が出来て日本が批准したのが遅れた理由でもありますね。

競争社会で生き残るための優生指導のようです。

生き残りのための選択を条件反射の様に反応する能力を高めてきましたね。


生き残るためには外側の脅威から戦うか逃げるか!しか選択の余地がないスイッチを持つ「爬虫類脳」と言われる原始脳ばかりが発達します。


真我と繋がり無条件の愛や無限の可能性や自由な意思や許しや受容や承認、一体感などの応答(反応の反対)が無意識に自然体となり、穏やかさや感謝と言った心の状態が主の人間脳に、血流が届かないと本来の人間らしい心を忘れた社会では、誰一人幸せになれません、と思います。

周りをみてみてください。


中にはそれらをわかって修正し、分離感から一体感への変革を、一人一人の心のレベルや集団の中で挑戦している保育、教育、子育て、医療、をしている人たちもいます。


子どもの権利を守ることに批准した日本で「子どもの権利を守ること」に先進的に取り組み、また、発達しょうがいという研究と、子どもが自分らしく生きやすく、「共に育つ」という保育や幼児教育に理解と実践を進めた川崎市で私は200施設ほどの認可外保育所保育指導員をしていましたが園長先生方が学ぶ発達についてのレベルが高く、医師や研究機関や親と保育園や幼稚園が協働的に一体的に連続的に研究をしていました。


こうした公的な支援が、子どもたち自身や親、保育者、教育者の無知故の偏見を取っ払い、子どもが自分らしく学ぶ権利、愛される権利を安心して当たり前に受けられる環境を作ると思います。


当事者の親子だけに孤立させては何も誰も幸せになれません。

でも実際に気づいていない園長、校長がやってることは孤立させて苦しませて分離させるという、社会的虐待です。


反対ですよね。

受容れる環境、人の心、人間関係が先です。

その意味で日本は意識が遅れてるなと感じることしばしば、でした。


園長や校長がもっと勉強してくれないと、保育士や教師はボスのコピーですから「排除、分離、切り捨て、隔離、」をするでしょう。

なぜ、先生になったのか全くサッパリ分かりません。


どれだけの子どもたちが「自分らしく」を認められない狭い箱の中で息ができないままになるのか。


常々保育の現場で感じてきたことですが、「発達に配慮が必要」だから寄り添う保育をする、と考えた保育の方法は、


配慮が必要だから必要なのではなく、それは子どもたち、誰に対しても一人一人に必要な配慮でしょうと思うことが多く有りました。


例えばいっぺんにやるべき事を羅列して「はい、じゃみんな、やって」ではなく、

ゆっくり、一言一言口の動きをみせながら、一つのことを確実にイメージできて受け取れる様に話し、その時にそれを表す絵や写真や数字を大きく書いたものを見せる、その子が自分で確認して生活できるように配慮する、など。

それは違いのある無い関係ない本当は全ての子どもが欲しがる関わり方です。自分が愛された子どもは他人を愛します。

大切にされたら、他人を大切にするんです。


その、自分が繊細な子どもの心や発達の丁寧な過程への理解と敬いをいつのまにか忘れてすっ飛ばしていたことに気づいて、いかに自分が、寄り添いや見守りという子どもの個性的ぬ発達への敬意を忘れた「無感動、麻痺、無感覚」の態度に陥っていたかに気づかなければならない点。


その話をすると、慢心だった保育士は元々はピュアな心を持ってるから、

ハッとして自分の過ちに気づき態度を変える。

寄り添いと見守りの愛に目覚め取り戻し、涙と共に暖かく優しい、しょうがいと言われている子どもだけではなく、そのほかの子どもたちをも包み込む一人一人を大切にする保育の方法を考えつく。


その自己変革の過程を通り、気づいて変えられなければ、子どもたちは小さな年齢から「分離・喪失の恐怖」から心や脳や体を動かす生き方の繰り返しをすることになる。


その現れが現在、見えている「生きづらさを強制されている」社会の姿です。


「やりたい」と思ったら、どうしたら共に生き共に学び共に喜び合える機会を創れるのか、

人間アイデアが浮かんでくるものですよね。


しょうがい、って、

子どもではなく社会の有り様が子どもの姿を通して『合わせ鏡』として見せられているだけじゃないの?


社会が、しょうがいに陥ってるんです。


解放して欲しいと思います。


なにを?

それをもしかしたらこの学習会で受け取れるかもしれませんね。


そらくんとたからくんの母、素子さんの主旨から分かるかもしれない。


誰もが幸せに生きられる社会、創れるはずだと思ってます。


一人一人の内側にその答えと方法がある。


名前をつけられた「しょうがいです」と言われた子どもたちを社会の適合枠に入れる、という話じゃなく、

適合枠に合わないから別枠の箱の中にいれる、という話じゃない、と思います。


じゃあどうしたら良い?

何ができる?


親子だけが悩み乗り越える?そういうことでは絶対ない。

むしろ周囲の人、社会が先に共感し受容、承認している状態が、まず先に必要ですよね?


枠にはめようとすることは子どもへの虐待だけれどそればかりか、親への虐待にもなってることを、


「共に学ぶ、共に生きる、共に創造する世界を楽しむ、新しい価値観にふれあい受け入れ合い楽しむ喜びを味わう自由」を自分の社会的使命をもつ仕事。


保育者や幼児教育者、学校教育の教師、そして、保育園長、幼稚園長、学校長という職に立つ人。


人間一人が「生きる」ことについてこれまでの「形」が壊れて、再生が必要なbreakthroughと updateが起きる時代が来たと思います。


人、一人の内面が

社会に映し出される。


そう思ったら

誰一人無関係な人はいない、


そういうテーマを学べる学習会では!?

と思います。


シェア元、主催者、浅川素子さん(そらくんとたからくんのお母様)のFB文面はこちら。