2023年秋季号 その24
2月3日のホメーロス研究会の様子です。今回は『イーリアス』第一歌446~474行目までです。
オデュッセウスが祭司クリューセースに娘を引き渡しますと、祭司は喜んで受け取ります。そこで祭司はアポローン神に祈ります。
ἦ μὲν δή ποτ᾽ ἐμεῦ πάρος ἔκλυες εὐξαμένοιο,
τίμησας μὲν ἐμέ, μέγα δ᾽ ἴψαο λαὸν Ἀχαιῶν:
ἠδ᾽ ἔτι καὶ νῦν μοι τόδ᾽ ἐπικρήηνον ἐέλδωρ:
ἤδη νῦν Δαναοῖσιν ἀεικέα λοιγὸν ἄμυνον. (1-453~6)
かつて以前私が祈願したことを聞き届けて下さった
私を大切に思ってアカイア人達を痛めつけて下さった
(そのように)今また私の希望を叶えて下さい
今もうダナオイ人達から無慙な禍を防いで下さい
ἦ μὲν δή ποτ᾽ ἐμεῦ πάρος(453)で始まる二行が、ἠδ᾽ ἔτι καὶ νῦν μοι(455)で始まる二行と対照されています。そして祈願している内容は全く逆です。
454行目行頭の τίμησας について Willcock は興味深い註をつけています。
With this accent it is the second-person singular of the aorist indicative. ・・・ But τιμήσας participle may be preferableと。
なるほど、ἔκλυες と τίμησας と二つの主動詞が接続詞なしに並ぶととるより、ἔκλυες に分詞の τιμήσας が繋がっているととる方がより文の流れがなだらかの様に思えます。しかし、ἔκλυες と τίμησας が同格的に接続詞なしに並べられることはあり得ることですし、また、454行目内でのμὲν/δ(ε) の対応を生かす意味でも、テキスト通り τίμησας とする方がよいようです。
アポローンは祈願内容が全く逆であるにもかかわらず、すぐに聞き届けます。よほど神お気に入りの祭司であったのだと思われます。そこで神への捧げ物の儀式がはじまります。ホメーロスに供犠の場面は何回か出てきますが、この箇所が内容として最も充実しているようです。
αὐτὰρ ἐπεί ῥ᾽ εὔξαντο καὶ οὐλοχύτας προβάλοντο,
αὐέρυσαν μὲν πρῶτα καὶ ἔσφαξαν καὶ ἔδειραν,
μηρούς τ᾽ ἐξέταμον κατά τε κνίσῃ ἐκάλυψαν
δίπτυχα ποιήσαντες, ἐπ᾽ αὐτῶν δ᾽ ὠμοθέτησαν:
καῖε δ᾽ ἐπὶ σχίζῃς ὁ γέρων, ἐπὶ δ᾽ αἴθοπα οἶνον
λεῖβε: νέοι δὲ παρ᾽ αὐτὸν ἔχον πεμπώβολα χερσίν.
αὐτὰρ ἐπεὶ κατὰ μῆρε κάη καὶ σπλάγχνα πάσαντο,
μίστυλλόν τ᾽ ἄρα τἆλλα καὶ ἀμφ᾽ ὀβελοῖσιν ἔπειραν,
ὤπτησάν τε περιφραδέως, ἐρύσαντό τε πάντα. (1-458~66)
祈りをすませそして大麦の粒を投げかけると
先ず(犠牲の牛を)のけぞらせ喉を切り裂き皮を剥ぎ
腿の骨を切り取って脂身ですっかり包み
二重にして(包み)その上に肉片をのせた。
老人(の祭司)は薪の上で焼き、上に輝く葡萄酒を
注いだ。若者達がその傍に五叉の串を手に持っ(て立っ)た。
腿がすっかり焼け臓物を味わうと
残りを皆細かく切り串に刺し、
念入りに焼き上げ、全てを引き抜いた
少し前にあった操船の描写(432~6)と同様、定型的手順のテンポよい叙述です。
ここは典礼として、そして生活文化史的に興味深い一節です。
459行目に αὐέρυσαν とあります。この語形について高津註を見ますと「αὐέρυσαν < ἀϜ-Ϝέρυσαν < ἀν-Ϝέρυσαν < ἀναρρύω であって、ἀνά が apocope(語末音消失)の形で ἀν- となり、-ν-Ϝ- が同化作用によって -ϜϜ- となり、前の母音と二重母音を形成して αὐ- となったもの」と、懇切な解説がなされています。
この供犠の描写についてピエロン他諸註の解説に耳を傾けてみます。
まず αὐέρυσαν の表す情景についてですが、「牛の鼻面をつかみ、頭を後ろに反らせ、喉を露わにする」としています。Leaf はその目的を partly perhaps for convenience of cutting the throat, partly in sign of dedication to the heavenly gods と説明しています。
460、1行目の κατά τε κνίσῃ ἐκάλυψαν/δίπτυχα ποιήσαντες は「二層の脂身を、一方は上に他方は下に置く」としています。これを Kirk は a kind of sandwich と表現しています
461行目の ὠμοθέτησαν については、「そうすることで犠牲獣全体が供えられたと看做されるのだ」と補足説明しています。
464行目の πάσαντο については、「ホメーロスにおいて動詞 πάσασθαι は『味わうgoûter』を意味し、後の詩人のように『腹一杯食べる se gorger de』を決して意味しない」と註記しています。儀式として口を付けるのだと思われます。
最後二行は供犠が一段落し、いよいよ人間が食べるための支度です。465行目は弾むような勢いがあり、466行目は流れる様な調子であり、食欲がそそられます。
そして宴が始まります。
αὐτὰρ ἐπεὶ παύσαντο πόνου τετύκοντό τε δαῖτα
δαίνυντ᾽, οὐδέ τι θυμὸς ἐδεύετο δαιτὸς ἐΐσης.
αὐτὰρ ἐπεὶ πόσιος καὶ ἐδητύος ἐξ ἔρον ἕντο,
κοῦροι μὲν κρητῆρας ἐπεστέψαντο ποτοῖο,
νώμησαν δ᾽ ἄρα πᾶσιν ἐπαρξάμενοι δεπάεσσιν: (1-467~71)
さて仕事を終えて会食が準備されると
会食した、心は充分な食事に不足とするところがなかった
さて飲み食いの欲を追い払うと
若者達は混酒器を飲み物で満たした
杯に献酒してから皆に注いで回った
467行目前半には π 音、後半には τ 音が心地よく繰り返されています。そして467,8行目には δαῖτα、δαίνυντ᾽、δαιτὸς とこころなしか宴席の音が響いているかのようです。
469行目には ἐξ ἔρον ἕντο と ἔρος を物であるかのように扱った詩句があります。これについて研究会で話題になりました。
「このように抽象より具体を好み、物事を即物的に捉えるのはホメーロス的だ」
また
「矢のような物に意思があるかのように捉えることもある(脚が人を運ぶこともある)」
との意見もあり、
「精神と物質、内面と外界と言った二分論でないということではないか」
「人の意思と神の差配との共存もそれと繋がるのではないか」
等の意見もありました。
「精神と物質」「内面と外界」「人間と超越的なもの」といった区分は近代の特徴ですが、ホメーロスのそのような二項対立にとらわれていないところは却って新鮮に感じられます。そしてそれはホメーロスを読む楽しみの一つでもあります。
次回ホメーロス研究会は2月10日(土)で、『イーリアス』第一歌475~499行目までを予定しています。