ほめりだいのブログ

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2024年度春季号 その14

 

7月20日の「ホメーロス研究会」の様子です。今回は『イーリアス』第二歌326行目から349行目までです。

 

ὡς οὗτος κατὰ τέκνα φάγε στρουθοῖο καὶ αὐτὴν

ὀκτώ, ἀτὰρ μήτηρ ἐνάτη ἦν τέκε τέκνα,

ὣς ἡμεῖς τοσσαῦτ᾽ ἔτεα πτολεμίξομεν αὖθι,

τῷ δεκάτῳ δὲ πόλιν αἱρήσομεν εὐρυάγυιαν. (2-326~9)

丁度、それ(大蛇)が雀の雛と母鳥を食べた

八羽を、そしてそれを産んだ母雀が九羽目だった如く

その如くに我々は同じ年数をここで戦い

十年目に道広き町を陥落させるであろう

 

この予言では数が鍵となっています。今我々は「九羽目 ἐνάτη(327)」に対応する九年目に至っている、そして「十年目には τῷ δεκάτῳ ・・・」というわけです。

「九」はホメーロスが好む数字でありよく出てきます。ただそれは次に来る「十」の出来事の前段としての九である場合が多々あります。第一歌冒頭近くでアキレウスが全軍を招集したときもそうでした。

 

ἐννῆμαρ μὲν ἀνὰ στρατὸν ᾤχετο κῆλα θεοῖο,

τῇ δεκάτῃ δ᾽ ἀγορὴν δὲ καλέσσατο λαὸν Ἀχιλλεύς: (1-53,4)

九日間にわたって陣中に神の矢が降り注いだ

十日目に会議へと兵士達をアキレウスが呼び集めた

 

そして今回の箇所でも、決定的出来事は十年目に起こるとされています。

ここまでが、オデュッセウスが直接話法で伝えるカルカースの予言です。そしてオデュッセウスはこう締めくくります。

 

κεῖνος τὼς ἀγόρευε: τὰ δὴ νῦν πάντα τελεῖται.

ἀλλ᾽ ἄγε μίμνετε πάντες ἐϋκνήμιδες Ἀχαιοὶ

αὐτοῦ εἰς ὅ κεν ἄστυ μέγα Πριάμοιο ἕλωμεν. 

ὣς ἔφατ᾽, Ἀργεῖοι δὲ μέγ᾽ ἴαχον, ἀμφὶ δὲ νῆες

σμερδαλέον κονάβησαν ἀϋσάντων ὑπ᾽ Ἀχαιῶν,

μῦθον ἐπαινήσαντες Ὀδυσσῆος θείοιο:  (2-330~5)

彼はこう語った、今やそれらのことが実現しようとしている

さあ脛当良きアカイア人達よ皆留まれ

ここに、大いなるプリアモスの城を落とすまで

こう(オデュッセウスは)言った。アルゴス人達は大いに喚声を上げた(周りでは船々が

恐ろしげに反響した、アカイア人達の叫びの許で)

貴いオデュッセウスの言葉に賛同して

 

333,4行目の ἀμφὶ δὲ νῆεςσμερδαλέον κονάβησαν ἀϋσάντων ὑπ᾽ Ἀχαιῶν は、いわば括弧書きの挿入であり、ἴαχον(333)は二行後の μῦθον ἐπαινήσαντες ἰέναι に繋がります。

そしてこの挿入に描かれた反響は、一般兵士の反応を如実に示し、オデュッセウスの説得が功を奏したことを告げています。

 

そこで今度は老将ネストールが立って演説します。

 

ὦ πόποι ἦ δὴ παισὶν ἐοικότες ἀγοράασθε

νηπιάχοις οἷς οὔ τι μέλει πολεμήϊα ἔργα. (2-337,8)

おおなんと言うことだ、全く子供の如くに喋っている

幼稚な、戦いのことが全く念頭にない(子供の如くに)

そしてこうも言います。

αὔτως γὰρ ἐπέεσσ᾽ ἐριδαίνομεν, οὐδέ τι μῆχος

εὑρέμεναι δυνάμεσθα, πολὺν χρόνον ἐνθάδ᾽ ἐόντες. (2-342,3)

というのもいたずらに我々は言葉であらそい、なんらの手立ても

見いだせずにいる、ここに長く逗留しながら

 

ここで疑問が湧きます。すぐ前のオデュッセウス演説の結果、アカイア勢は μέγ᾽ ἴαχον ・・・ μῦθον ἐπαινήσαντες(333~5)と語られていました。ところが、ここのネストールの演説での παισὶν ἐοικότες ἀγοράασθε(337)とか ἐπέεσσ᾽ ἐριδαίνομεν(342)とか、オデュッセウスの説得の成果を無視したような表現になっています。それ故註釈者達の中では、テキスト編集上の問題がある、すなわちこのくだりにはオデュッセウス演説版とネストール演説版とがあった、その二つの混交の結果である、との説があります。

一方 Willcock などは

Odysseus' speech has been successful in pleasing the crowd and distracting them from taking to the ships. Nestor can now afford to be tougher and more critical

等として、現行テキストをそのまま受け止めています。

  研究会では

  「オデュッセウスの段とネストールの段との繋がりが不整合との感は否めない」

とする声の一方、

  「飴と鞭だ」

  「まず寄り添って耳を傾け、厳しい言葉はそれからというのは指導の鉄則」

等の後者説擁護の声もありました。

たしかに、示し合わせたわけではないでしょうが、オデュッセウスとネストールが阿吽の呼吸で役割分担をしたとの解釈はあり得そうです。『オデュッセイアー』におけるネストールの次の言葉も思い合わせられます。

 

ἔνθ᾽ ἦ τοι ἧος μὲν ἐγὼ καὶ δῖος Ὀδυσσεὺς

οὔτε ποτ᾽ εἰν ἀγορῇ δίχ᾽ ἐβάζομεν οὔτ᾽ ἐνὶ βουλῇ,

ἀλλ᾽ ἕνα θυμὸν ἔχοντε νόῳ καὶ ἐπίφρονι βουλῇ

φραζόμεθ᾽ Ἀργείοισιν ὅπως ὄχ᾽ ἄριστα γένοιτο. (『オデュッセイアー』3-126~9)

そこにいた間中私と貴いオデュッセウスは

一度も会議や評議で意見を異にしたことはなかった

心一つに思案や行き届いた謀でもって

どのようにしたらアルゴス人達に最も良いかを考えたものだ

 

今回の場面では、引き留めの目的は両者一致しているわけですし、それはアガメムノーンの事前の要請でもありましたので尚更です。

 

そしてネストールは続けてこう言います。

 

τούσδε δ᾽ ἔα φθινύθειν ἕνα καὶ δύο, τοί κεν Ἀχαιῶν

νόσφιν βουλεύωσ᾽: ἄνυσις δ᾽ οὐκ ἔσσεται αὐτῶν:

πρὶν Ἄργος δ᾽ ἰέναι πρὶν καὶ Διὸς αἰγιόχοιο

γνώμεναι εἴ τε ψεῦδος ὑπόσχεσις εἴ τε καὶ οὐκί. (2-346~9)

そんな奴ら一人二人は身を滅ぼすに任せよ、アカイア人から

異なった意見を言う奴らは(どうせそれが成就することはあるまい)

アルゴスに帰ろうなどと、アイギスを持つゼウスの

なされた約束が偽りであるか否か知る前にだ。

 

346行目の ἕνα καὶ δύο はネストールの老練なところです。「そんな奴はテルシーテース以外には、いてもせいぜいもう一人くらいだぞ」と。

347行目の ἄνυσις δ᾽ οὐκ ἔσσεται αὐτῶν もやはり括弧書きの挿入であり、その前のβουλεύωσ᾽ は次行 ἰέναι に繋げてとるのがよさそうです。

349行目の ψεῦδος は皮肉です。とは言ってもネストールの皮肉ではなく詩人の皮肉です。ネストールは今自分がゼウスの「偽りの夢」のお告げにのせられていることを気づいていないのですから。

 

次回ホメーロス研究会は7月27日(土)で、『イーリアス』第二歌350行目から374行目までを予定しています。