歌手にスカウトされ。。。  

 

 

秀樹さんの音楽ルーツ続編です。

 

(10)「プロ歌手に」と勧誘 16歳の夏休みに東京へ


 小学五年のときに、兄や先輩たちとバンド「ベガーズ」を始めた僕は、自宅で練習に励む日々を送りました。ボーカルは先輩で、僕はドラムとコーラスの担当でした。
 

 ベガーズでは、メンバーがアルバイトをして月賦で楽器を買っていました。僕も中学生になると、新聞配達や牛乳配達をしてドラム代の返済に充てました。休みに、よく岩国のいとこの家に行ったことも思い出です。米軍キャンプに行きミュージシャンの演奏を見て音楽を吸収しました。
 

 中学の文化祭で演奏をすると、校内中で話題になりました。なにしろ、当時はグループサウンズの全盛期でしたから。でも、中学二年に進級すると兄たちが卒業していき、ベガーズはリーダー不在に。僕は水泳部の友人に声を掛けて「ジプシー」というバンドを結成しました。コンテストに出場し、上位に入賞したこともあります。
 

 高校生になると、叔父が支配人をしていたジャズ喫茶で、演奏のアルバイトをするようになりました。するとある日、叔父と知り合いだった「寺内タケシとブルージーンズ」のボーカルをしていた藤本好一さんから「プロにならないか」と誘われたのです。
 

 バンドでドラムを担当し洋楽ばかり演奏していた僕は「腕が認められた! ミュージシャンになれる」と喜んだのもつかの間、実際には「歌手にならないか」という話でした。歌う方がバイト料が良く、尾崎紀世彦さんの「また逢(あ)う日まで」や布施明さんの「そっとおやすみ」などを歌っていたのを、聞いていたというのです。
 

 洋楽にのめり込んでいたバンド仲間は「歌謡曲なんて歌うの?」と不思議がりましたが、ともかく夏休みに東京に行くことに。十六歳でした。


このあたり、「のどもと過ぎれば」でも語られていますね。

 

 

 

エレキギターを持ってきてくれた叔父さんは、ジャズ喫茶の支配人だったんですね(なるほど、ここで納得でした)。

岩国の米軍キャンプが近くて、生きたアメリカの音楽を肌で感じることができたのも、のちの秀樹さんの音楽性に大きな影響を与えていたんでしょう。

この時期にギターなどの楽器を始める人は多いと思いますが、特に秀樹さんの周りの音楽に関する環境はとても恵まれていますよね。

次回は、いよいよ上京編です。

 

 

金曜日(4月5日)、「武田鉄矢の昭和は輝いていた」スペシャルがあって、新浜レオンさんの「出演しま~す」のポストを見たのが職場に行ってからだったので録画予約できず、、、(何のためにフォローしてんねんムキー

しかも仕事帰りに散髪の予約入れてしまってて、帰ったら番組が半分以上終わってて。。。残念 ゲッソリチーン

実家から連絡あって、見てる~?って聞かれたけれど、知ってるけど見れてない~~ 滝汗滝汗

いちおう録画してくれてるみたいだけど。。。

(音楽番組は見逃し配信少ないのよ、、、この番組も配信ないし)

 

そんなレオンさんの番組後のポスト。

 

 

こうしてオープンに思いを発信して下さるのがうれしいですね。

先輩方にも積極的にコミュニケーションとって、いい関係を作っているようで、これからもがんばってほしいです。

秀樹さんと会えていたら、かわいい後輩になったでしょうね。。。

 


今日も最後までおつきあいいただき、ありがとうございます。