この前やったシリーズになりますが、これはイマイチ解ってなかったみたいで、今回改めてやりたいと思います。
そういうわけで、行きましょう。
太政官札とは何か?
近世において、江戸幕府は紙幣を発行しなかった。
しかし諸藩は、藩内の通貨不足や財政難の打開のために藩札を発行した。
この藩札は、藩内限りで通用する事とされ、幕府の発行する金銀銅貨と兌換出来る事になっていたが、次第に兌換出来なくなっていった。
これが、日本の紙幣の源流とされている。
但し、藩札の形状は縦長で印刷も粗雑、贋造も比較的容易で現在の紙幣とは、あまり似てはいなかった。
明治維新により、変わる財政
明治維新後、新政府も諸藩も財政に苦しんだ。
諸藩は藩札を増刷し、貨幣贋造に手を染める場合もあった。
新政府の管轄下になった府県は、府県札を発行した。
新政府は、貨幣改鋳を実施したが、その結果、貨幣の品位は、旧幕府時代にも増して低下した。
また、大隈の前任者である由利公正の提案により、不換紙幣である太政官札を大量に発行した。
大隈も当初は、不換紙幣発行を引き継がざるを得ず、その流れで民部
省札が発行された。
太政官札や民部省札は、藩札に習ったもので、その形状は縦長で印刷は粗悪、藩札同様に、贋造する事が容易であった。
この時期、藩札・府県札・太政官札・民部省札など、不換紙幣が大量に発行されて、しかも流通していたのである。
このような状況は、インフレを助長するだけでなく、紙幣流通そのものを混乱させていたのである。
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(2)太政官札(10両)
紙幣の統一
混乱を終息させるにはどうしたらよいか。
大蔵省は紙幣の統一を目指した。
1870年に、北ドイツ連邦フランクフルトにある印刷会社に紙幣印刷を依頼し、1871年末に受領。
創設間もない大蔵省紙幣寮が1872年に紙幣に押印し、発行した。
これは、「新紙幣」または「ゲルマン紙幣」と呼ばれ、当時としては精巧な印刷で贋造困難なものであった。
この新紙幣と、粗雑かつ贋造品も混じっていた藩札・府県札・太政官札・民部省札などと交換し、紙幣の統一を図った。
しかし、この新紙幣も、新政府発行の不換紙幣であって、藩札の伝統を引き継いだ縦長の形状であった。
この時の紙幣寮の責任者が、初代紙幣頭(長官)であった渋沢栄一である。
国立銀行券の登場
こうして発行されたゲルマン紙幣だったが、政府は正貨と交換出来る兌換紙幣の発行の必要性を認識していた。
1869年より、通商司が管轄する東京・大阪などの為替会社に兌換紙幣としての為替会社紙幣を発行させたが、結局これらの為替会社は、経営不振に陥ってしまった。
また、1871年大蔵省は、正貨と兌換出来る大蔵省兌換証券を発行したが、翌1872年には、正貨兌換を取り止めてしまった。
近代的な意味での「銀行」が発券した最初の紙幣は、「国立銀行券」であった。
伊藤は1870年から71年にかけてアメリカを偵察し、民間に「国立銀行」を設置させ、国立銀行が兌換銀行券を発行するという制度の創設を提案した。
これを受けて、初代紙幣頭・渋沢栄一が制度設計にあたり、1872年に「国立銀行条例」が公布された。
こうして、民間の国立銀行が続々と設立されたのである。
国立銀行は、通常の銀行業務を営むと共に、銀行資本の60%にあたる額の「政府紙幣」を政府に納入し、政府はそれと引き換えに「金札引換公債証書」を公布し、これを抵当として、国立銀行券を発券し、資本の40%は正貨(本位貨幣)として、それを兌換準備金に充てる事になった。
ここに、国立銀行が兌換銀行券を発券する近代的な紙幣制度が創設されたのである。
(4)第一国立銀行紙幣(10円)。
近代的紙幣制度の確立
1871年、ニューヨークの紙幣製造会社に新銀行券の製作が発注された。
この銀行券は、従来の紙幣とは異なって、横長の形状になった。
1873年には、三井組・小野組を中心とした「第一国立銀行」が創設され、第一国立銀行券が発券された。
しかし、同年渋沢栄一は大蔵省を辞任した。
井上馨と共に国家財政の均衡を強く主張していた事が原因だが、辞任以前から実業の世界に進む事を志向してもいた。
辞任直後、渋沢栄一は第一国立銀行の銀行事務総監に就任し、その経営に携わる事となった。
結局、紙幣の発行主体の一員となったのである。
近代的紙幣制度確立
近代的紙幣制度の確立への道は多難を極めた。
国立銀行条例による設置条件は厳しすぎて、1876年までに5つの国立銀行しか設置出来なかったのである。
1877年に、国立銀行条例が改正され、国立銀行券は不換紙幣となったが、これによって国立銀行が乱立し、同年の西南戦争による戦費調達もあって、またぞろ不換紙幣が乱発され、インフレを加速した。
この事は、財政責任者・大隈の勢力失墜の遠因となった。
まとめ
さて、日本の最初期の紙幣史、如何でしたでしょうか。
太政官札とは、日本の紙幣史のスタートにおいて、輝いていた存在である。
これを改良する事で、日本の紙幣史はスタートしたのである。
この事は、我々に1つの事を教えてくれる。
即ち、紙幣とは信頼だと。
信頼の度合いがインフレとして現れ、時には財政難として国をも苦しめる。
しかしこれは、所詮波のようなもので、いつまでにやりなさいという期限のある問題では無い。
ベーシックインカムと同じである。
いつかはやらなくてはならない、でもいつかは誰にもわからない。
法律問題では、こういう問題が多いのである。
この時活躍していた渋沢栄一も、大隈重信も今はいない。
科学技術はあの頃よりも遥かに進歩したにも関わらず、あの頃のような決断や進歩を行える人というのは、出て来ていません。
結局、人ではないでしょうか。
全ての文化・文明は、全て人に帰すものなのです。
岸田総理も色々と言われていますが、あれも所詮、「岸田ノート」が実は空っぽだったところから始まっています。
結局、ゴミはゴミなのです。
ゴミをどう視点を変えて見ても、所詮、ゴミはゴミでしかありません。
しかも、絶えずいろんな廃棄物をまき散らすゴミです。
有害無益だと解っているんですから、次の選挙では、しっかりと処分しましょう。