(先日の話のつづき)
とりあえず牛頭天王について、こちらのイメージと向こうのエネルギー多寡のコミュニケーションによって分かったことは、
- 不動真言、さらにはむしろ大金剛輪陀羅尼があるとパワーアップする
- 浄化は火焔で! キラキラや白金の光や流水ではなく
- 一般参拝客の、心からひれ伏すような畏怖・畏敬の念が足りない
ということだった。
1. については、なにか昔、八坂神社が感神院祇園社だった頃に、朝夕のおつとめとして受けていた一連の勤行セットがあったのではないか、という気がする。国策で明治元年に神仏分離令が施行され、純粋な神社となり、今はスサノオとして神道一辺倒の祈祷しか捧げてもらえない(?)が、本当はもうちょっと仏教寄りの、不動明王の供養に似た(?)かつてのパワフルな修法を恋しがって求めておられるのではないか、と。広峰神社から勧請されて以来、神仏混淆の供養をされていた時代の方がずっと長かったはずであるし(どんな感じかはまるで観る機会がないのでイメージ出来ないのだが)。
祇園祭ー祇園御霊会の起源, Wikipedia
ここの「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)の起源」のあたりを読むと、かつての八坂神社の神仏混淆だったころの祭祀形態が少し分かる。
それから、2. の「浄化は火焔で!」については、三面十臂に本地仏の薬師如来を頭に乗せ(本地が薬師如来なのは知っていたが未だピンと来ない)、虎にまたがり、火焔を背負っている神像、というのがあることを知った。
天台寺門宗の祈祷寺・金翅鳥院さんのブログ。八坂神社は長らく比叡山延暦寺の管轄下にあったので、お寺側(天台密教)から観るとこういう容姿だったのだろう。ちなみに金翅鳥院さんは、天部の神様を調べているとよくヒットする。こちらのお坊さんの書かれた本も、たまたま2冊ほど持っている。ひっそりお世話になっている。
祇園祭の鉾の囃子方・コバやんさんのブログ。山鉾町の祭壇の掛軸の牛頭天王像を公開して下さっている。さすが現場の中の人。資料が豊富そうでいいなあ。
明王ではないが、見た目がとても明王っぽい(明王さんは割と青黒の姿を現じるが。あでも愛染明王や赤不動などは赤黒だ)。或いは桜井識子さんの言うように、ちょっとばかりワルいお願いでも気に入れば聞いてもらえる場合があるというのなら、聖天さんなどの仏教の天部の神様に近い感じなのかもしれない。何れにせよ、これは明らかに破邪に焔を使う人である。なるほど、拝殿で「白金の光で浄化」をしようとしても、はああ?、という感じがしたわけだ。なんで場違いな感じがしたのか、裏付けがはっきりした。ついでにベッドの上でエネルギーを受けているときに、光明真言を唱えても反応がなかったし。
それから火焔を背負った牛頭天王像、虎に乗っている。上が牛頭で下が虎、丑寅、鬼門だ。自身が鬼門であり、鬼門に強い。だから桜井識子さんが言う通り「魔に詳しく、魔に強い」わけだ。昔の人も同じことが分かっていたから、意味を絵で表すべく虎に乗せたのだろう(...すごいなー。そんなの自分の感覚では全然気付けないわ)。そういや平安神宮の裏にある岡崎神社も祭神は牛頭天王で、実に都の鬼門封じになっている(今はスサノオにされているが御朱印の文字は「東天王」)。牛頭天王、魔から守る鬼門封じの人だ。
ちなみに1. の「大金剛輪陀羅尼」は、“勤行の際に読経や真言を読み間違えたり、雑念や邪念が生じた際の赦しを乞う為に唱えられる呪文”で(一般人は間違えたり集中出来ていなかったりしても比較的お叱りを受けないが、お坊さんは「プロの下僕・世話人」なので、いい加減な態度で臨むと怖い眷属から厳しい障りを受ける場合があるらしい)、暗記して意味を意図せず音に専念するのが大事である、とのこと。でも意味もちゃんとあって、それがこれ↓
大金剛輪陀羅尼, Wikipedia
過去、現在、未来の三世の全ての如来に、全てを投げ打つつもりで帰依します。
(種字)煩悩の垢を離れた御方よ、煩悩の垢を離れた御方よ、偉大なる法輪を廻す不退転の悟りを得た御方よ、
私たちと同じく有情の御方よ、有情の御方よ、悟りの堅固な御方よ、悟りの堅固な御方よ、
救済して下さる御方よ、救済して下さる御方よ、消滅させる御方よ、
粉砕して下さる御方よ、三慧を成就した御方よ、
最も勝れた御方よ、(種字)
ひれ伏し、畏敬の念を表し、相手を讃える文言なのである。これは3.の「一般参拝客の、心からひれ伏すような畏怖・畏敬の念が足りない」に繋がらないか。
八坂神社は京都きっての観光名所である。最近は平日でも参拝者の列が並び、鈴も絶えずガンガラ鳴らされ続けている。みんな思い思いのお願いごとをする。私もした。「神社は感謝するだけでお願いごとをする場所ではない」と主張する霊能者も居るが、そんな悠長なことを言っていられない人間はたくさん居るのである。夜な夜な霊障に遭って、メンタルをやられかけ、何をどうしても止まなかった、私のような人間だって一定数居る。特殊な力を持つ人にお願いするしか術がない事態というのはあるのである。だから一生懸命お願いする。祈る。でも、神仏はお願いを聞いてもらうためだけの存在ではない。そもそも在らせられるというだけで稀有で凄くて有難い存在だ。それに、そこに在って頂くためだけにでも、神主や僧侶が毎日心を整え場を清め朝夕奉讃し、それを千年続けてきた。そこへ一般人はやってきて百円のお賽銭でお願いごとだけして帰る。お願いごとのためだけに現金に頭を下げ、後は忘れる。はっきり言ってほとんどフリーライドである。そもそも居ていただけるだけで凄くて有難い、という前提の感覚をすっ飛ばかしている。有難い気持ちだけで平身低頭、頭を下げることは、ダサくて小っ恥ずかしいことであるかのように、目を背けていないか。
今一度、御成敗式目の「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ」という文言を思い出したい。