主日礼拝でした
今日は夜まで伝道してさっき帰宅。
そして、さっき
清さを保ちながら、待つ。
事を何となく思った(示された?)
この1週間、語られてるのは
清さ、聖なる、聖別、清さ、清さ、清さ。
です。清さがとっても語られてます。
デボーションも清さについてだったし。
門を主が守る
箴言8:34
〜幸いな事よ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、私の門の柱の脇で見守って、私の言うことを聞く人は〜
ってとこにフォーカス合って、今年5784年のテーマと言われてる詩篇24編にも門や戸って出て来て改めて何を意味してるんだろうって思って調べてたの。
門は、人や物や情報が出入りするし、主の御国の門の内にいる時は安全なんだけど、そうでない時や、クリスチャンでは人達は、あらゆる人や物、情報が好き勝手むさぼり自由に出入りしてるから、その莫大な情報量を抱えきれなくて、破滅する。
現代はインターネットが門になってるって示してた。
だからこそ門を守らなければと示された。そして門を守の人は幸いなことよ。と言ってくれている。
言いたくないけど、電車。本当に酷い。
さっきも、酒に酔ってる人ばかりだし、女性2人でで50.60代?なのに大声で話してその話の内容もどーでもいい会話で車両一台分を制する声量だった。
ハッキリ言って、品がない
同じ女性として、恥ずかしい。
そんな普通に思ったと同時に苛立ちが凄く、こうやって敵は攻撃仕掛けてくるなって。
私は思い違いをしていたようだ
ヤコブへの手紙を読んでいて
神様から来るもの
敵から来るもの
こんなにハッキリと書いてあるのにね
私の今までの経験は無駄にはならない
むしろ、その経験を使う。
神様はそういうお方だし
そういうご性質があると私は思っている。
ある意味で、これはヒントだと思った。
例えば、英語が全く出来ず、興味もなく、パスポートも持ったことがない。日本が好きで、日本人しかいない教会に通っている。友人も周りも日本人しかいない。
そのような人に南米に行きなさい。
といきなり主が語るだろうか?
もし、それが本当に主からの声であれば、ステップがあると思っている。
今の教会の牧師は、日本語しか話せない。しかし、海外宣教に行きまくっている。どうして行く事ができるのか?
奥さんが、語学堪能だから。
もう何十年も前だろうけど、神様からあの人の助け手になりなさいと語られてから、付き合って、結婚したそう。
そのように、必ず伏線というものを主が与えてくれていると思うんです。
接点というものでしょうか。
私はこの半年間、自分の今まで経験してきたこと、私の特性や性格よりも主の約束を得るために私の努力や思いを最優先してました。
その結果どうなったかというと、何の共通点もない、分かり合えない、繋がりがない、人間関係しか出来ませんでした。
少しあっても意気投合しない(⌒-⌒; )
そんな感じ。
本来の罪とは聖書では、
"的外れ"という意味。
この的外れ、思い違い=罪となって、何度頑張ってもダメだったのかなと。。
ここまで、道が開かないと流石に何かおかしいと気付いて、今、ようやく気付いたのです
的外れ。
清さを保ちながら、規則正しい生活をし、運動やストレッチ、マッサージ、祈りをしながら、美活をしながら、礼拝に行きなさい。クリスチャンと交わりなさい。
そうしたなさい
いや、そうしたい!
という思いにようやく今変えられています。
hallelujah…