大正デモクラシーとは何か③ | 時事刻々

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大正デモクラシーとは何か③

〜大正デモクラシーと、現代の民主主義〜  


 

なぜ、私がこのシリーズを書いたか。

それは、現代の閉塞した民主主義と、約百年前に流行った大正デモクラシーとは、同じではないか?と思ったからです。


大正デモクラシーは、一期と二期に分かれます。


一期は、政党が運動をリードし、「閥族打破」「憲政擁護」を掲げ、成功します。

  

二期は、主に旦那衆や都市雑業層という、都市住民を中心にして起こりました。

普通選挙を勝ち取るなど成功しますが、治安維持法も引き換えに成立しました。 

そして、治安維持法がこの後大活躍し、日本は治安維持法に縛られたまま、先の見えていた戦争に突っ込んで行かざるを得なかったのです。



【大正政変】


二個師団増設を強引に要求し、西園寺内閣を倒したのは、まさに、陸軍を背景とする長州閥だと、民衆も見て取りました。


政党も民衆も、第三次桂太郎内閣に激しく反発し、ここに第一次護憲運動が起こります。


政党や政治団体らは、立会演説会を開催し、激しい政府批判のキャンペーンを展開していた様子が伝わってきます。 

立憲政友会の大演説会では、「山縣を殺せ、閥族を殲滅せよ!」と言った罵声が飛び交っていました。 

  

桂内閣の下に開かれた第三十議会では、立憲政友会の尾崎行雄が登壇し、内閣弾劾の緊急動議を提出しました。


こうした政党の動きと、民衆側が反桂内閣の声を挙げながら国会を包囲し、大きな問題となっていきました。

 

そして、この一大民衆運動が、遂に藩閥政権である桂内閣を倒し、幕を閉じたのです。 


この事件を、大正政変と言います。


ここに、第一次大正デモクラシーは無事、終了しました。



【米騒動と、大正デモクラシー】


こういった民衆運動のうねりがやがてデモクラシー運動へと転化していく中で、米騒動という事件でした。

 

第一次世界大戦を背景とした米価の高騰と共に、陸軍大臣の寺内正毅がシベリア出兵を宣言した事によって、国民の不安は頂点に達し、富山県魚津市を皮切りに全国的な米騒動が発生する事になりました。


米騒動は、移出の取り止め、安売りの哀願から始まり、次第に寄付の強要、打ち壊しや焼き打ちへと発展していった。


政府は1000万円の国費を、米価対策資金として支出する事を発表し、各都道府県に向けて米の安売りを実施させたが、米価が下落したという印象があるという理由で、わずか2週間、予算は4割しか使ってない状況で、打ち切った。

 

結局、これは軍隊を動員して力尽くで従わせました。 


当時は、アメリカがデモクラシーを擁護し、旧ソ連がロシア革命による社会主義の影響を受けて、国が早期にこの問題を片付けたかった事が分かります。


一方、鎮圧された民衆側は、「きちんと物を言って通るような国になってもらおう」と考える人達が、「普通選挙」を求め、此処に第二次大正デモクラシーが始まったのです。

 

 

【第二次大正デモクラシー】 

 

そして、「普通選挙」を求める民衆運動が高まりを見せる中、大正十三年一月に貴族院議員を中心に組閣した清浦奎吾内閣は、まさに、大正デモクラシーに逆行するものでした。


これに対して、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派は、「憲政の本義に則り、政党内閣の確立を期す」事を申し合わせると、倒閣を掲げて第二次護憲運動を展開しました。

 

たまらず、その月末に衆議院が解散すると、その選挙では護憲三派が勝利した為、加藤高明総理の下、護憲三派内閣が成立しました。


この加藤内閣の下で、悲願であった「普通選挙」は、遂に実現を迎えます。

大正十四年五月五日には、改正案が可決され、選挙権が拡張されます。


但し、これでも十分ではなかった。

女性には選挙権が与えられなかったし、生活出来なくて共助や公助を受けている人も、与えられなかったのである。 


その一方、加藤内閣は普通選挙法と引き換えに、社会主義運動の活発化を取り締まる為に、治安維持法を成立させました。



【治安維持法】


普通選挙法と同時に制定された事から、「アメと鞭」の関係にもなぞらえられ、政治運動の活発化を抑制する意図などがあると、当時から見られていた。 


そして、実際にその取り締まりは物凄く、東京地方裁判所検事局の栗谷四郎が、「検挙すべき対象がもういないから、このままだと特別高等警察と思想警察の存在意義に関わる」として、適用対象を宗教団体・学術研究会・芸術団体へと拡大していった。

  

これがあったからこそ、誰も国に文句を言えなかったのです。



【今へと続く、吉野作造の言葉】

  

吉野作造は、次のように述べています。

 

『我々は決して生まれながらに独立自由では無い。


独立自由は、将来において達成すべき我々人類の理想的目標である。

 

我々は修養努力によって独立自由の人格者たろうとする事が重要である。


と。

  

選挙権を全ての民衆に与えて政治参加を実現し、それを通して人間の能力を自由に開花させる事、この民衆の人格の発展を可能にする社会的機能こそ、近代的立憲政治である、と考えたのです。  


自らが心条とするキリスト教の人格主義的価値を持って、絶えず民衆に寄り添い、現実にある社会問題をどう解決していくのか、これが吉野の終生のテーマとなりました。



【歴史は繰り返す】


よく言いますね、これ。


今回ので、百年前と現在がこれだけ似通っている、と云う事が分かったでしょうか。


かつて日本は、これだけの人々が戦い、血を流した歴史があるのです。

 

あの時はダメでしたが、今回こそは良くしなければなりません。

 

その為には、自民党に改憲をさせない事。

もっと言えば、緊急事態条項を成立させない事です。

 

これは、第2の治安維持法となるでしょう。