大正デモクラシーについて① | 時事刻々

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大正デモクラシーについて①

〜吉野作造と民本主義運動〜



皆さん、「大正デモクラシー」とは、覚えていますか?


中学・高校時代に習う日本史の大正時代に起こった「民本主義運動」です。


この運動が何故起こり、何を求めて、どういう結果を見たのか?

 

それでは、見て行きましょう。



【大正デモクラシーの背景】


日露戦争を終わらせたポーツマス講和会議では、戦勝国である日本は賠償金を受け取ることができませんでした。

そのため、戦争犠牲者の遺族や戦費拡大に伴う増税に苦しんできた人々の不満が高まりました。

その不満は、同年9月5日から7日にかけて、東京・日比谷に人々が集結して国民大会を開くまでに到り、付近の内務大臣官邸や講和賛成を唱えていた国民新聞社を焼き討ちするというかたちで噴出します。

警官隊や軍隊がこれを阻止しようとしましたが、群衆との衝突が起きました。これが、いわゆる日比谷焼討ち事件です。

日比谷焼討ち事件は、政府が戒厳令を敷くことで騒擾をやっと沈静化したのです。


【大正デモクラシーの目的とは】

このような街頭での騒擾を契機に、中小企業主や商店主といった旧中間層に加えて、都市におけるホワイトカラーなどの新中間層、さらに労働者も加わって「民衆」が誕生したのです。

この「民衆」がデモクラシー運動の主役となって藩閥政権からの脱却をはかり、第一回普通選挙を実現させるに至る大正14年までの政治的民主化の過程は、大正デモクラシーと呼ばれています。


【吉野作造と民本主義】

 

大正デモクラシー運動を代表する思想として広く知られるのが、東京帝国大学教授の吉野作造博士 が唱えた民本主義です。


吉野が言う民本主義は、単に概念的なデモクラシー思想に止まるものではなく、その体系的な理論として提示されたのが論説「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの道を論ず」でした。



【吉野作造の狙い】


吉野は民本主義を「一般民衆の利益幸福並びに其の意嚮に重きを置くという政権運用上の方針」としています。


つまり「君側二三者の意見に諮る」閥族政治が、「人民一般の意嚮に聴く」議会政治に比べて如何に非合理的で非立憲的であるかを示し、政党政治の実現、選挙権の拡張、衆議院の重視などを主張したのです。


吉野は、主権在君の明治憲法の下で立憲主義への筋道を切り開くために、この「民本主義」という言葉に実践的なデモクラシーの理念を託して、果敢に取り組んだのです。