知られざる一世一代の儀「大嘗祭」とは何か | 時事刻々

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今日は、「知られざる一世一代の「大嘗祭」とは何か」です。
それでは、どうぞ。


知られざる一世一代の「大嘗祭」とは何か


谷田川惣(著述家、皇室評論家)


 今年5月に今上天皇陛下が皇位を継承され、平成から令和への御代替わりが行われた。

 平安時代以降、皇嗣が皇位に就くことを践祚といい、皇位に就いたことを内外に示す儀礼を即位という。今回は5月1日の践祚直後にまず「剣璽等承継の儀」が行われた。皇位継承があったその日に剣璽(三種の神器のうちの天叢雲剣、八尺瓊勾玉)と御璽、国璽を新帝が継承する儀式だ。そして、同日に新天皇が内閣総理大臣ら三権の長をはじめ国民の代表者と会見する「即位後朝見の儀」が行われた。

 少し時間を空けて10月22日には天皇が即位を国の内外に宣明する「即位礼正殿の儀」が行われ、各国元首、首脳らや国内の代表が参列。さらに、一連の皇位継承儀礼のクライマックスにあたるのが11月14日の夕方から15日未明にかけて行われる大嘗祭だ。

 「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽さんに励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」という即位後朝見の儀での天皇陛下のおことばは、まさに歴史と伝統に基づく天皇のご存在のあり方を表している。天皇の行いとは、宮中祭祀から全国各地へのご訪問などのご公務まですべてが国家の繁栄と国民の幸せを願う祈りなのだ。

 また、元旦の四方拝に始まる宮中祭祀の中で、最も重要な祈りの儀式となるのが毎年11月23日に行われる新嘗祭である。天皇が五穀の新穀を皇祖神・天照大神及び天神地祇に供え、自らもこれを食べ、その年の収穫に感謝する。古来、一般庶民も新嘗祭までは新米を口にしない風習があったが、現代にいたるも天皇陛下は新嘗祭を終えるまで新米を食されないと言われている。

 天皇が即位後に初めて行う新嘗祭が大嘗祭である。即位の礼で皇位の継承を内外に宣明した天皇が、日本国の祭り主の地位として初めてその年の収穫を神に報告し感謝する一代一度限りの儀式だ。
 毎年の新嘗祭は常設の建造物である神嘉殿で行われるのに対して、大嘗祭は仮設・新造の新宮を皇居・東御苑に建てて執り行う。柴垣で外部と区画し、中心線に回廊を設けて、大嘗祭の神事が斎行される正殿として、東に悠紀殿、西に主基殿の二殿を配置し、神聖な食前を調理する膳屋、祭祀に先立ち天皇が沐浴を行う廻立殿などが設けられる。これらの諸殿舎を総称して大嘗宮と呼ぶ。

 令和の大嘗祭は11月14日午後6時半から「悠紀殿供饌の儀」、同15日午前零時半から「主基殿供饌の儀」が執り行われる。
1990(平成2)年に使用された大嘗宮=皇居・東御苑
 悠紀殿と主基殿のそれぞれで、大嘗祭のたびに選ばれる斎田でとれた稲の初穂でご飯が炊かれ、正殿の神座に天照大神及び天神地祇をお迎えし、天皇が神膳を捧げて共食される。
 斎田の選定では、47都道府県を東西に分け、亀の甲羅で占う「斎田点定の儀」によって、それぞれから「悠紀国(地方)」「主基国(地方)」がまず選ばれる。その地の水田から斎田が決められ、「斎田抜穂の儀」で収穫された稲の新米が皇居へと運ばれる。今回の斎田は栃木県高根沢町大谷下原と京都府南丹市八木町氷所新東畑の水田が選ばれた。

 大嘗宮は伝統的に木造建築で統一されてきたが、今回は神前に供える食事を調理する膳屋と、新穀を保管する斎庫をプレハブ(鉄骨造)としたこと、さらには、正殿の屋根を茅葺きから板葺きへと変更したことが物議を醸している。

 こうした経費節減でも人件費、資材価格の上昇を吸収しきれず、建設費は前回の14億円を超える見通しだというのが宮内庁の見解だ。

 古来、大嘗宮は大嘗祭に先立つ1週間前から悠紀・主基国の人々の手によって5日間で完成させる黒木造りの簡素な形式だった。大正天皇の大嘗祭にかかわった民俗学者、柳田國男は古くからの伝統に近代的な要素が入り込んでいることも指摘しており、伝統と新儀の調和が歴史と文化をつくるともいえるので、何が正解であるかは時代とともに常に論じられることでもある。

 〝大嘗〟という言葉が最初に出てくるのは「古事記」に登場する「天の石屋戸」神話である。スサノヲが、天照大神の水田を壊し、天照大神が大嘗を召し上がる神殿も穢すなどの悪行を続けたため、怒った天照大神が石屋戸の中に入って出てこられず、この世は真っ暗闇になってしまったという有名な話である。ここにある大嘗とは、「日本書紀」には新嘗と記されていることからも新嘗祭の意味であることがうかがえる。

 その後も、「日本書紀」には幾度か大嘗や新嘗の文言が登場するが、大嘗祭が一代一度のものとして確認できるのは持統天皇からだといえる。持統天皇の夫であった前代の天武天皇が即位したあとの初めての秋に播磨・丹波の二国の人たちが参加する大嘗祭を行っていたという記載があるものの、翌年以降にも二度同じような記述が見られ、一代一度の大嘗祭とは考えにくい。

 天武天皇の御代に大嘗祭の原型が形成され、持統天皇の御代から天皇一代一度の大祭となったと考えるのが妥当であろう。古代国家から律令国家へと移行していく過程で大嘗祭が確立されていくことになったと考えれば納得できる。当時の律令国家とは今で言うところの近代国家であり、天皇即位において初めての新嘗祭を国家祭祀として盛大に執り行うようになっていったのだろう。皇室祭祀にとって一つの転換期であったことがうかがえる。

 一連の皇位継承儀礼を締めくくる最も重要な祭祀儀礼とされる大嘗祭であるが、「天皇は大嘗祭を終えてから正式な天皇になる」という見解をしばしば目にする。すなわち大嘗祭を終えていない天皇は「半帝」であり完全な天皇とはいえない、大嘗祭は真に天皇としての資格を獲得する儀式であるという。
皇位継承に伴う重要祭祀「大嘗祭」で使われる新米を納める「新穀供納」の行事=2019(令和元)年10月15日、皇居・東御苑(代表撮影)
 やはり大嘗祭の本旨は、天皇自らの親祭で、神膳の御供進と共食が行われることにあるだろう。大嘗祭で完全な天皇となるのではなく、即位の礼で皇位を継承したことを内外に宣明した正式な天皇が執り行う最も重要な祭礼ということである。

 秋篠宮殿下も昨年のお誕生日に際してのおことばで、憲法との関係で宗教色の強い大嘗祭は天皇及び皇族の日常の費用などに充当する内廷費で行うべきではないかというご意見を示された。平成の大嘗祭をめぐって憲法訴訟が起こされたことに配慮なされたのかもしれない。

 しかし、大嘗祭に関する違憲訴訟はすべて退けられ、政教分離には反しないというのが司法の確定判断である。その判断基準となったのが昭和52年の津地鎮祭訴訟だ。最高裁判所は「政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ」て政教分離原則との適合性が判断されるとしている。いわゆる「目的効果基準」である。そして地鎮祭については「社会の一般的慣習に従つた儀礼を行うという専ら世俗的なもの」という判断を示した。

 最高裁の「国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではない」との解釈は重要だ。国際常識でも政教分離原則とは、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則のことをいう。国家が特定の宗教団体に利するようなこと、あるいは圧力をかけるようなことを禁じることが目的にある。
平成の大嘗祭に臨まれる上皇さま=1990(平成2)年11月22日、皇居・東御苑
 例えば宗教法人はお布施など宗教活動にともなう収入や境内建物などに関して非課税とされているが、言い方を変えれば本来政府に入るべき収入を宗教法人に供与していることになる。特定の宗教に対して利益を供与すれば問題だが、公平の観点に基づく関与であれば政教分離の規定に反することはないということだ。

 大嘗祭を国費で斎行しても、特定の宗教団体を利することもなければ、不利益を与えることにもならない。天皇が国家や民のために祈る祭祀は、およそ2千年前から続くわが国の伝統儀礼そのものであり、憲法上の政教分離に反することにはならないという認識を、大嘗祭を前に国民全体で共有しておきたい。