両陛下ご結婚記念日 永遠に残る島原ご訪問 | 時事刻々

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はい。皆さん、こんにちは。
今日は、「天皇陛下、永遠に残る島原御訪問」です。
これが、日本の天皇陛下です。
それでは、どうぞ。

両陛下ご結婚記念日 永遠に残る島原ご訪問「国民と同じ目線で歩むお姿を示された瞬間」 天皇陛下・美智子さま 祈りの30年 - 森 哲志


雲仙・普賢岳噴火、東日本大震災、中越地震……被災地へのご訪問を長く続けて来られた天皇皇后両陛下。「どうか、頑張ってください」「その後、村のご様子はいかがですか?」――暖かいお言葉が、人々を勇気づけてきた。

【写真】島原ご訪問。ひざまずかれ、避難住民を励まされる両陛下

 訪問先の人々が心打たれたお言葉や当時のエピソードの数々を、あらためて現地で尋ね歩いた『天皇陛下・美智子さま 祈りの三十年』から被災地訪問の先鞭をつけることになる、「1991年7月10日、長崎・島原へのご訪問」を紹介する。

◆◆◆

38日目、「あまりに早いご訪問」

 東京から飛行機、在来線、フェリーを乗り継いで5時間以上、920キロという距離以上に時間をかけてようやく到着するのが長崎県島原市である。五重五層の島原城の天守からは、雲仙・普賢岳と眉山がそびえる姿を見ることができる。1991年、噴火・火砕流により死者・行方不明者44人、被害建物約2500棟、避難者約1万11000人という戦後最大の被害を出した山である。それからもう28年が経ち、山は今、穏やかな姿を見せている。だがその地底には、真っ赤なマグマが今なお滾っているのだろうか。

 時を経ても、毎年6月3日は「いのりの日」とされている。かつて大火砕流が発生した午後4時8分には、市内全域にサイレンが鳴り響き、市民は黙祷する。夜になると子供たちが灯籠に蝋燭を灯し、冥福を祈る。

雲仙・普賢岳の山肌を猛スピードで落下する火砕流(1991年6月3日)。手前は心配そうに見つめる住民ら ©共同通信社

 天皇皇后両陛下が島原に被災者を訪問されたのは、災害が起きてからわずか38日目、1991年7月10日のことであった。宮内庁をはじめ、気象・治安・警察当局や専門家の多くは当然、反対した。海部俊樹内閣も「今しばらくお待ちを」と引き留めたが、天皇陛下は「どうしても行く」と強い意向を示された。

 昭和天皇が被災地のお見舞いや慰問に行かれる時は、「安全宣言」発令後が通例だった。災害被災地のお見舞いには戦後5回行かれているが、いずれも発生後ある程度の時間を経てから、「復興状況視察のため」であった。天皇が安全宣言前に被災地入りするのは、初めてだったのだ。それだけに周囲の緊張も相当なものだった。

 ご訪問決定に驚いたのは、もちろん迎える側も同様であった。

 当時、九州大学付属島原地震火山観測所所長を務めていた太田一也さん(現九州大学名誉教授)を観測所の旧館に訪ねた。天皇皇后両陛下が島原を訪問されたとき、陛下に状況をレクチャーする立場だった方である。災害時、太田さんは研究者という立場に止まらず、災害対策に奔走していた。ヘリコプターに乗って噴火状況の視察を繰り返し、立ち入り禁止地域を広範囲にするよう提言。避難勧告を無視して危険な地域に残った取材陣や、取材陣を監視・誘導するために残った消防団員らが多数死亡した時には、マスコミの取材姿勢を厳しく非難した。当時の避難活動の中心人物の1人だったのだ。

「被災地訪問の先鞭をつけたのが島原だと言うことは誇りに思います」

 太田さんはいまも旧館の一室で大量の火山標本と研究資料に埋もれ、パソコンの前に陣取っていた。

「天皇陛下とは年齢が一つしか違わず、同じ時代を一緒に生きてきた思いが強いです。前立腺がんを克服しながら、あれほど被災地を訪問されている。私も同じ病気だから、その苦労もよくわかる。被災地訪問の先鞭をつけたのがここ、島原だと言うことは誇りに思います。退位は寂しいけれど、これからはどうか健康第一に悠々自適の生活を送って頂きたい」

 と明るく話してくれた。天皇陛下へのご説明を担ったことはもちろん光栄に思っているそうだが、今なお悔しく感じることもあるという。

 天皇皇后両陛下がやって来られたのは、多くの被害者を出した土石流が最後に発生してから10日しか経っていない7月10日だった。決して活動が終息したとは言えない時期である。事実、前日の9日には上空から観測した溶岩ドームの温度が最高の400度にも達していた。万一、何か起きたら、どうなるのか……。

 そんな緊張感の中、陛下は紺のダブルの背広、美智子妃殿下は千鳥格子のツーピースの爽やかな出で立ちでホテル南風楼にお見えになった。

想定外のご下問に絶句

 太田さんは、ホテルに用意された部屋で、現在の火山の状況がどうなっているかをご説明した。パネルと共に、火砕流の岩塊や軽石噴石、火山礫などの標本も準備してこの日に臨んでいた。

「溶岩ドームが下から押し出されて、ぽろぽろ欠けながら崩れ、内部が溶解。崩落のショックで爆発を起こして火砕流が山を急激に下ったのです」

 できるだけわかりやすくと心がけ、説明すると、お2人は1つ1つの言葉に頷かれている。ただの素振りではなく、きちんと理解されていることが明らかなご様子に、内心驚きを覚えたという。

 そのためつい熱が入り、持ち時間の5分をオーバーして県関係者に制止されてしまった。しかし陛下はもっと詳しく状況を知りたい表情をされていた。緊張はまだ解けず、学会ではもっとすらすら説明できるのに……と思っていると、

「眉山は大丈夫ですか?」

 天皇陛下が突然質問された。

 太田さんはこの時、陛下のお顔を見つめたまま、絶句してしまったという。30秒は黙り、何も答えることができなかったそうだ。まったく答えを用意していなかったのだ。そして陛下の知識、この訪問に当たってのご準備に驚嘆せざるを得なかった。

 眉山とは、200年以上も前の寛政4年(1792年)に起きた群発地震により山体崩壊し、1万5000人もの死者を出した山である。そのきっかけも普賢岳の群発地震と噴火に刺激されたことであり、崩れた土砂が有明海に流れて津波を発生させ、天草を襲い、その返し波が島原を再襲来、甚大な被害につながった。災害は「島原大変肥後迷惑」と呼ばれ、今に伝わる。

 つまり陛下は、噴火が終わって地震が起き、眉山が崩れる恐れはないのか、大丈夫か? と、ご心配なさっているのだ。そこまでご存知なのか――。知事も陸上自衛隊の幕僚長も驚いた顔をしている。とても付け焼き刃の知識ではない。

 実は、3日前に安山岩の眉山に亀裂が入ったとの情報が対策本部から入り、自衛隊ヘリで確認したところだったのだ。しかしそれは通報者の勘違いと判明。アガっていなければ即座に「今回は心配ありません」と答えられたはずの質問だった。眉山が崩壊するなら群発地震が起きるが、全くないので大丈夫です、と太鼓判を押せていたはずなのだ。

「今、思い出しても、あの物忘れは残念でなりません。後悔しきりです」

 そう太田さんは振り返る。

「さ、私と替わりましょう」美智子さまのお気遣い

 その後、両陛下のたっての希望でカレーライスとサラダの簡素な昼食となった。十数人並んだテーブルの最端の席に座り、スプーンを手にしかけたら、天皇陛下が何か質問をされた。しかし太田さんにはよく聞こえなかった。

「なんでございましょうか?」

 と問い返すと、一同を驚かせることが起きた。

「さ、私と替わりましょう」

 美智子妃殿下がそうおっしゃって、立とうとされたのだ。みんなほとんど狼狽の体であった。天皇陛下の隣に座るわけにはいかず、正面に座る知事の隣の県会議長に席を譲ってもらい、陛下の質問に答えたのだった。陛下は食事にほとんど手を付けず、太田さんに熱心に質問を繰り返された。

「いっぱい質問されましたが、緊張していたもので、何一つ覚えていないんです」

 太田さんはそう笑った。

どよめきが起きた、自然な振る舞い

 この後、避難所へ被災者を訪問することになっていた。約500人が避難中の霊丘公園仮設住宅をはじめ、市内4ヵ所を巡るのである。カンカン照りで外は暑い。車から降りられた陛下は、歩きながら上着を脱がれた。さらにネクタイをはずし、ワイシャツの腕をまくり上げられた。

 その所作に当時、島原市長だった鐘ヶ江管一さんは驚き、思わず見入ったという。鐘ヶ江さんは、災害対策本部長として陣頭指揮を執っており、その長い髭を生やした風貌から「ヒゲの市長さん」と親しまれた……というと思い出す人も多いかもしれない。

「新しい天皇のスタイル、姿をお見せになったというか、示されたのでしょうね。気取らず謙虚に自然に……それを象徴する所作で、本当に素晴らしいと感じました」

 避難住民は13町1090世帯、4222人にのぼった。板張りの体育館では被災者はゆっくり休めない、と板張りの床全面に畳が敷かれていた。両陛下を迎えるに当たり、靴のままで奥に行けるよう、南側入口の土間から1メートル幅のビニールシートの通路を作った。

 鐘ヶ江さんは先導すべく、通路の上で起立して待っていた。土間に現れたお2人に「そのままどうぞ」と言ったが、天皇は腰を屈めて靴を脱がれた。

 そして直後、もっと驚くことが起きる。

「後から考えると、そのおかげで永遠に残る島原訪問として位置づけられたのですね」

 鐘ヶ江さんはそう振り返る。その時、鐘ヶ江さんは通路を先に進んでいた。しかし、背後で小さなどよめきが起きた気がしたのだった。何事か? 振り返ると、信じられない姿を見た。

 天皇陛下がシートにひざまずかれて被災者に語りかけられているのだ。傍らで美智子妃殿下も同じ姿だ。

 衝撃を受けたのは鐘ヶ江さんだけではなかった。小さく感嘆する声が湧いた。そこにいる人々すべての視線がそこに注がれた。天皇、皇后がそんなお姿を見せたことはこれまでにない。誰一人目にしたことがない、歴史的瞬間であった。

両陛下の暖かな励ましに背くことはできない

 お2人も周囲の反応は感じられただろうが、気にされたご様子を見せることなく、ごく自然に微笑まれながら被災者それぞれを見舞い、励まされた。

 夫を亡くし、小さな子供3人を連れた女性が手にした写真に目を止められると、お2人寄り添って話を聞かれた後、

「大変でしたね。どうか頑張ってください」

 と励まされた(余談だが、その時の3人の子は成長し、長男は自衛隊に、次男は福祉施設に、三男は消防団に勤めている。災害支援を志した長男は、東日本大震災では福島県入りして救援活動に尽力した)。

 鐘ヶ江さんは、

「2017年に、60代になった奥さんから聞かされたんですが、あの時は夫を亡くし、家族の幸せを奪われ、生きる希望もなく、いっそ後を追おうというほど思い詰めていたそうです。でも、両陛下のあの暖かな励ましに背くことはできない、強く生きなければと思い直し、死の妄想から逃れて育児に励んだのだそうです」

 同じ高さの目線で向き合うその姿が、どん底にある女性の魂に響き、生きる気力が戻ったのでしょう、と元市長は言う。

 その後の避難所でも、立ったまま被災者に向き合われることは一度もなかった。必ずひざまずいてお話しになったのだ。

「それまで視察に来た大臣も国会議員も官僚もみんな突っ立って見舞いの言葉を投げていたから、それはもう、私自身、驚いただけでなく、日本列島全体に衝撃波となって伝わりました」

 しかし宮内庁の一部や大学教授、評論家から疑問の声も上がった。「陛下が(国民に) 跪くことはない。その必要もない」といった内容だ。鐘ヶ江さんは市長として、すぐに反論したという。

「陛下のお気持ちが表れた証だ。何を言うのか。自分でまず被災者の気持ちになってやってみろ」

貫き続けられる姿勢

 この時以降、両陛下の姿勢は変わらず貫かれた。そのことを鐘ヶ江さんは、

「国民と共に同じ目線で歩む、という陛下の姿勢の表れではないでしょうか。新しい時代の天皇としてご決断されたのでしょう」

 思い返されるのは、1990年11月12日、即位礼正殿の儀での「おことば」である。

「(略)改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ……(略)」

 そこで誓われた決意を最もわかりやすくお示しになったのだろうと考えている。その後、鐘ヶ江さんはもう一度お2人にお目にかかる機会があった。

「2014年長崎国体の時、諫早のホテルです」

 その時は県内の関係者30人と1緒にロビーに立っていた。出迎えの中の1人としてである。ところが陛下は、エレベーターを降りられると、まっすぐ鐘ヶ江さんのところに歩いてこられて、

「長い間ご苦労さまでした。髭がないですね」

 と、声をかけられたという。鐘ヶ江さんは初めてお目にかかった時に験をかついで剃らなかった髭を、噴火の沈静後、“剃髭式”を開いて落としていたのだ。

 続いて美智子妃殿下に「お病気と聞いていましたが、お元気になられてよかったですね」と気遣う言葉まで戴いた。鐘ヶ江さんが2003年にクモ膜下出血で入院したのは確かだが、すでに11年も経っている。一同、そのお気遣いと記憶力に圧倒され、言葉を失ってしまったという。

 退位を聞いた際には、誕生日のお祝いを兼ねて島原産の胡蝶蘭と、美智子妃殿下がお好きな薔薇の花束をお贈りした。

「訪問された日は猛烈な暑さで、帰りの機内では首筋をずっと冷やされていたというほど体力も消耗された。でも、あの一日の訪問のお心と姿勢は東日本大震災にも継がれていると思います。被災者・被害者を励ますとはどういうことなのか、その根っこを考える機会になったこと、感謝してもしきれません。本当にありがとうございました、とお伝えしたいです」

(森 哲志)