二条シネマで・・

映画鑑賞前のランチは「カプリチョーザ」でぺスカトーレ

映画鑑賞の目的はサブウーハの口径を見極めたいから

最低38cm、できれば46cmと思いましたが

ランチワインが程よく冷えていて一気飲みしたせいか

感性が鈍っていたのは確かです。




阿波踊りを見に最終日の15日に徳島まで行ってきました。

鉦や太鼓の音とともに「ヤットサー」  「ヤットヤットー」の掛け声が町中に響き渡ります。


流石、地元の銀行の「連」だけあってべっぴんさんを揃えてます

男性陣の「おとこ踊り」は独特の動きと迫力があるのですが女性が躍る「おとこ踊り」には また違う魅力があります。





7年前に大阪南港で「阿波踊り in 大阪南港コスモスクエア」のイベントで初めて「阿波踊り」を 見て、いつか本場で見てみたいなぁと思っていたのですが実現しました。





サッカー解説者の「武田修宏」も華麗な「おとこ踊り」を披露

毎年8月8日は恒例の琵琶湖花火大会でした。

今年は打ち上げ会場の正面から見たので迫力がありました。





伊藤 若冲(いとう じゃくちゅうは、近世日本の画家の一人。江戸時代中期の京にて活躍した絵師。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。初めは春教(しゅんきょう)と号したという記事がある[3]が、その使用例は見出されていない。斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)とも号す。
写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」として曾我蕭白、長沢芦雪と並び称せられる。

正徳6年(1716年)、京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)の長男として生を受ける。

齢40となった宝暦5年(1755年)には、家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居する(当時、40歳は「初老」であった)。宝暦8年(1758年)頃から「動植綵絵」を描き始め、翌年10月、鹿苑寺大書院障壁画を制作、明和元年(1764年)には金刀比羅宮奥書院襖絵を描く。明和2年(1765年)、枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟・宗寂が死去した年、「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進する。このとき若冲は死後のことを考えて、屋敷一箇所を高倉四条上ル問屋町に譲渡し、その代わり、問屋町が若冲の命日に供養料として青銅3貫文を相国寺に納めるよう契約した。

wikipediaより



鶏たちが生き生きと力強く描かれていて、弟子たちの作品も展示されていたがその違いに「師匠」はやはり凄いなと思った。

ランチは近くの「La Petite Scene(ラ プティ セヌ)」でラムのミンチボールを頂いた。
あまりにも美味しかったのでシェフに「フランスで修業されたのですか?」と聞くと「京都と東京だけです。」との事。



型破りなアプローチでフラワーショーの歴史を塗り替えた実在の景観デザイナー、メアリー・レイノルズをモデルに、夢にも恋にも全力でぶつかるヒロインの姿を描き出す作品

自然の風景に合いに「ハイキング」に行きたくなりました。