今日は、またまた頭にくる話と呆れる話、、、 | Holy Rosariya ロザリ屋

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これはイタリアのPollenza 付近の写真で、、、文章とは無関係です。。。。

 

あ~。。。今朝。またしても、ばからしい、あほらしい、あきれる話があった お聞きください

 

あるカトリック施設にて、会場を借りるために予約に行った

 

すると!? そこは、信者が勤務していますが。。。まことに、、、「公務員よりひどい」って感じです

 

人は悪い人じゃないのですが、、、愛徳がないですね

 

キリスト者としての「精神」にかけている

 

というのは!?

 

一般の会社であっても(まだましだ) その施設を借りるとき

そこの書類、記入する書類くらいはおいてあるのが 「普通」

 

なのに、そこにはない。

 

そして、入り口に、施設の使用の表があった

シフト表見たなもの

 

入口に、、、外からの人が来る人が見やすいように?

外向きに、。。

 

それをみていたら

職員が 「見ないでください!」とかいうし

(だったら、みえるところにおくなよ

しかも、外からの人が見やすいようにそっち向きでおいてるくせに。 見られたくないなら自分の席におけよ とおもう)

 

そして、さらに 予約状況を聴いたら 「17時から空いている」とのことだったので

 

「予約します。。。用紙は?」ときくと

 

職員:「用意が悪いですね、自分で借りたいなら、自分で用紙を印刷して、もってくるものです。」

 

私:「え?そうですか?普通なら、そのフォーマットは大抵はおいてあるものですが、ここにはお客さんが借りるために、その用紙も用意してないんですか? パソコン持ってない人はどうするんですか?」 (といってやった。役所だって、用意してるわ)

 

職員:「パソコン持っていなくても皆さん用意しています。自分らで」

 

私:「そうですか??普通はここで使用するフォーマットならここで用意するのが普通とおもいますけど、ないですね~・・・」

 

つぎに、それで職員は、用紙をだしてくれたのでお礼をいって

記入したら、また

 

職員:「字が汚いですね」

私:「あ、、悪かったですね」

職員「もうすこし、きれいな字で書いてください」

私:「字が汚てもうしわけないですね。字が下手ですし、手で書くことがあまりないので、、、でもよめるんじゃないですか?」

 

職員:「・・・・いつのリハーサルですか? 3/3のですか?

それなら、そうと書いてください」

私:「『用途』とかいていますので 「リハーサル」でいいはずです。いつの?とか書く必要もないし・・・

 

てなわけで、今日はこれでなんとかおわった

 

でも、いつでもそうですが、

 

聞かれたことしか答えない

 

普通は、信者じゃなくても、、、お客様には案内するべきことさえも案内しない そして 一昨年、大阪から司教様がこられて宿泊することになった時も、その施設で泊まれますか?ときいたら。。

 

職員:「司教様は一般の人と違いますので別の場所を用意しています。ここの施設ではお泊りになれません」

 

私「あ。。。そうですか」

 

ときいた。で、その数日前に、司教様から「部屋には何が用意されているか確認してほしい」とのことだったが、私が返事する前に(仕事中で対応できなかった)司教様がご自身でこの施設にTELをして確認をしたらしい。でも、 「何時に締まる」とか「ほかの人にその施設を教えることができない」ということは、私も司教様もきいていなかった。

 

直前に、何かの拍子で、話をしていたらその職員は

職員:「この施設は、他の人にはどこにあるかは教えられません。そして、私達は17時で帰りますので、その前にきてくれないと案内できません。それ以降のこられるなら、泊れませんから」

 

これって、「特別な司教様」をお迎えする「信者」のいうことですかね?

 

しかも、私とかがその施設に案内することもできない、

となるとどうやってその施設に誘導するか?というと その職員がお連れすると。。

 

でも、司教様は16時半に千歳につく

そこから1時間はゆうに札幌までかかる。。。

 

その話をきいて、私もそこにいけないならどうやって案内しますか!? というと

 

職員:「私たちは17時で仕事が終わりますので、それ以降は案内できませんから、別のホテルを取ればいいんじゃないですか」

 

という。。。ほんとにこれが信者の言うことか??と驚いた

とともにあきれた

 

私:「え?そんなこときいてないですよ?!その時間までまっててくれるとか、私が先に鍵をもらって、あとでご案内するとかできないのですか?」

職員:「できないです、きまりですから」

 

私:(こいつ、、、ほんとに愛徳ないな。)

 

と思いました

 

ほんとにあきれますね

 

信者ならとくに、あきれますが、、

私達はこうであってはいけません

 

いつも相手が何をのぞむか?聞く前に想像して?!

相手が喜ぶことを考えて 「提供」する

 

そして、「何が欲しいですか?何か困っていますか?」と

こちらから聞いてあげる

 

また、相手のことを考えて、察して、相手が言う前に準備して提供する、、、、

 

それくらい、愛があればやれること、やらなければいけないことです 毎日。。。

 

言われてからやる ってのは最低ですね

 

吉本がいってました

 

4流の芸人:いわれてもやらない

3流の芸人:いわれてからやる

2流の芸人:言われる前にやる

1流の芸人:すでにやっている

 

キリスト者は、「相手に仕える」ために。。。と

キリストは模範をしめしました

 

「いわれてないからやらない」「頼まれてないからやらない」

「聞かれてないからいわなかった」

 

これは、愛のない姿勢です

 

愛は、相手のことをいつも考えて、自ら進んで奉仕、提供する姿です。

要求でもなく、いやいやでもなく

 

かえって、面倒でも、やりたくなくても 「やるのです」

 

それは、「感情」でうごくのではなく、「意思」で動くべきだからです

 

絶えず「感情」で動く人の人生はとても浅く、木の葉のように毎日ふらふら、、です

 

でも、芯のある生き方、太い幹、帰のような生き方は、

雨が降っても、雪が降っても、眠たくても、おなかがすいても

あの人、この人が嫌い、すきに かかわらず

 

やるべきことをやること

 

自分に言い訳をゆるさない

 

いつも神の前に出ていることを意識すべきです

 

すぐに、心配やお金のことを考えるのは、、キリスト者ではないです

 

神を大事にするなら、そのような考えはでてきません

 

だから 「まず、神の義を求めなさい。そうすればすべてのものがたりる」

 

すぐにお金のことを、またすぐに心配事が出てくる人は

キリストに神に信頼していない、信頼、信仰がたりない

中心がずれている 

 

だったら、その信仰が強くなるように祈りましょう

 

自分が弱くても神は強いことを

自分が間違っていても、神はただしいことを

自分が悪くても、神は正しいことを

 

みよう

 

自分は、弱くまちがっていてもいいんです

それが現実だから。

 

でもそこで諦めるのではなく、弱さを自覚しながら

認めて、神により頼もう そして、昨日よりも1歩前進できるように

 

何歳になって、あきらめてはいけない

 

神に向かって、愛のある人間になろう

そこからエネルギーと力をもらおう

 

あきらめたら、そこで成長も可能性もとまってしまう

 

でも、神は人間に沢山の恵みと可能性を提供している

それをみもしない、ためしもしないであきらめると

後で死んだときに神にすべてみせられるだろう

どんなに、沢山のものを準備されていたのに自分は何も生かさなかったかを、、それを死んでからみても悔やむだけ

 

最近はある、教会関係のボスをみてよくおもう

 

「あ~。。。責任とりたくないから、結局、1タレントを土に埋めているんだ。そして主に「あなたは完璧な方ですので、私は失敗したくなかったので、何もしませんでした」と応えるのだろうな。 さて。。。神はなんというだろうか??

 

本当に、、、何もチャレンジしない人は、失敗したくない人ですが、成功もしたくない 賜物を土に埋めている人だ

それで褒められると思っている

 

だろうが?!主はどうされるか?

 

そのような、怠け者は(努力をしない、冒険をしない)

「外の闇にほうりだせ!そこにははがみと歯ぎしりがあるだろう」

 

これだ。この報いは

 

だから、何かやるとき、提案があるときに、すぐに反対をするのではなく、

 

最大限に生かす ことを考えなければいけない

 

誰の為に? 

 

神のみ旨と人々の救いの為に、チャンスを提供する

 

決して、自分が人の救いの邪魔をしないように

 

この「邪魔」こそ、神はさばきます