四旬節黙想会  惜しみなく与え、惜しみなく奪う。指導司祭:小寺左千夫神父(オプス・デイ属人区) | Holy Rosariya ロザリ屋

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四旬節黙想会(本原教会)2023/03/30,31

指導司祭:小寺左千夫神父(オプス・デイ属人区)

 

テーマ『神の子、兄弟愛を生きる』

1.        惜しみなく与え、惜しみなく奪う。神に感謝!

年度末を迎えました。この一年を振り返り、神に感謝を捧げましょう。何でも当たり前だと思う人は感謝できません。感謝できない人は、自分のことばかり考えて、人のことを思うことが出来ない人です。人生に当たり前は何一つありません。誰かがどこかで働いているのです。そのお蔭で今の自分があるのです。そこに思い至るなら、自ずと感謝するでしょう。その感謝は恩返しという形で実を結びます。感謝は、人のために努力する原動力でもあります。大阪で言い伝えられている教えがあります。それは「親、苦労する。子ども、楽する。孫、乞食する」です。貧しかった親は苦労して商売を大きくしますが、苦労知らずで豊かな暮らしが当たり前の子は、感謝を知らず育ち、財産を食い尽くして家を失い、最後は乞食になるという話。

 

貧しさが努力の原動力になりました。貧しいことは不幸ではありません。また、病気や怪我も不幸ではありません。人間は満たされた生活より、むしろ苦しみの中で成長するからです。実際に怪我を経験した一流選手が更に成長して復帰するのを見たでしょう。また成功だけに感謝するのではありません。失敗も成功するための貴重な体験です。だから不幸ではありません。豊かさだけでなく貧しさにも、健康だけでなく病気や怪我にも、成功だけでなくい失敗にも、すべてに感謝できるのです。感謝の心で現実と向き合いましょう。

 

旧約聖書のヨブ記に「神は惜しみなく与え、惜しみなく奪う。神に感謝」という言葉があります。よいものを受けたなら神に感謝するのは分かりますが、奪われて感謝するとは、どういうことでしょうか?ヨブ自身は「よいものを受けたなら、悪いものも受け取るべきではないか」と答えています。もう少し説明が必要です。「悪いもの」と自分が思っても、神が与えるものは「よいもの」であると信じているのです。「奪われた」と感じても、それは成長するために必要だから神が取り上げたと信じているのです。そして、実際にそうなります。

フランシスコ教皇は、日常的に「ありがとう」の言葉を頻繁に使うように勧めています。ちょっとした親切にも、微笑みにも、心遣いにも「ありがとう」が自然に口から出るように心がけましょう。難しい理屈より、日々の積み重ねです。いつも「神に感謝」が口ぐせに!■

2.神の子として生きる「霊的幼児」の道

 

神様と向き合う姿勢や心がけは、小さな子どもの方が大人より優れているのです。大人は自分を捨てる戦いをしなければ、この精神を身に付けられません。小さな子は、自然に親に助けを願います。親を信じているからです。大人はいろんなことを知り、出来ます。人に頼ることが恥ずかしいと感じます。知らないと劣等感を持ちます。相手より自分が優れていると優越感を持ちます。これでは、素直な心で神と向き合えません。社会人としては大人ですが、神のみ前では、大人も小さな子どもに過ぎないのです。それを忘れています。神は何でも知り、何でも出来るのです。私たちは何も知らない、何もできない子どもに過ぎません。だから、子どもの心を取り戻しましょう。

 

 親が我が子に望むのは、「知ったかぶり」や「出来たふり」でしょうか?その逆でしょう。親に素直にお願いすれば、喜んで助けるでしょう。それが親にとっては、喜びでさえあります。同じことです。私たちが立派なことをするのを、神は望んでいません。出来ることを一生懸命に果たし、親である神の助けを願う小さな子です。成功の果実より、失敗しても、未熟でも、親への「思い」が大切なのです。ありのままの姿で、何も隠さず、いいかっこもしないで、自分の限界を認め、素直に神に向かいましょう。神は父です。そして私たちはみんな、神の子なのです。小さな子どもなのです。

 

 幼いイエスの聖テレーズの言葉を思い出しましょう。「父親が小さな子を両手で持ち上げ、たかい!たかい!をします。大きくなると出来ません。天国に行くのは、父である神が私たちを持ち上げてくれるからです。自分の力で、立派な行いで上ろうとすると、自分が大きくなりすぎて、神は持ち上げられません」。かえって神様の愛を遠ざけます。神なしで、私たちは何もできません。ありのままの姿で向き合いましょう。神はすべてをご存じですから。出来ることを全力ですればいいのです。神は子どもを愛します。虚栄心にとらわれず、身軽に神と向き合えばいいのです。聖ホセマリアは、それを霊的幼児、神の子として生きると教えました。これが信仰の礎なのです。■

 

3.神の子として試練と戦う

Q.「私は長年、神様のために一生懸命働いてきたのに、どうして病気になったのですか?いい加減な信仰のAさんは元気でピンピンしているのに…神様は不公平です!神父様、どう思いますか?私は、もうミサにも行きたくない、教会の仕事も一切引き受けません。いいですか?」

A. あなたは教会に何を求めていたのですか?あなたは神様に何を求めているのですか?イエスは何を教えていますか?

 

洗礼式の時、「あなたは教会に何を求めますか?」と質問されます。その時、「信仰を求めます」と答えます。また、イエスは食べ物について思い煩う使徒に向かって「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな。神の義を求めよ」と教えています。あなたにもイエスの同じ言葉が聞こえてきませんか?教会のために働いたから病気にならないはずだ。苦しいことに合わないように守られるはずだ。人々から尊敬され感謝されるべきだ。そんなふうに考えていたのではないでしょうか?

 

イエスも試み(誘惑、試練)を荒野で受けました。その時「父である神よ。どうして私を苦しめるのですか?」と文句を言ったのでしょうか?その逆です。「人はパンだけに生きるのではない。神の言葉で生きる」と空腹という苦しみを神の望みとして受け入れました。また「神である主を試してはならない」と答えました。自分の思い通りを主に強要してはいけません。どんな状況でも神には従うべきです。病気を受け入れられないのは、パンのためだけに生きているからではないですか?神は私の病気を治すべきだと思うのは、主を試すことではないですか?

 

 「神様のために一生懸命に働いてきた」から「神の子」として当然のことを神に要求していると思っていませんか?荒野でイエスは悪魔から誘惑(試練、試み)を受けましたが、その時の言葉が「もし、おまえが神の子なら」でした。アダムとエバは「神のようになりたい」と思って、善悪の知識の木の実に手を出しました。悪魔は元天使でしたが「神のようになりたい」と考えて神に従わず、神から離れて悪魔になりました。自ら「神の子」になろうとする人は、悪魔の誘惑に騙されて神の子の恵みを失います。反対にイエスは本性から「神の子」でしたが、それに固執せず自らへりくだり「人の子」として来られました。罪が無いのに十字架の苦しみを自ら引き受けました。イエスに倣う人は神から愛され、神の後継者として高められ、「神の子」の身分を受けるのです。■

 

4.「犠牲」は「愛の業」と一体

 

四旬節の犠牲の定番は、「好きなものを控える」です。晩酌をしない、コーヒーを飲まない、ケーキを食べない、などです。自分の欲望に体を支配させないため、これらの犠牲は有効です。「節制や慎み」という徳を育てます。同じ意味で、苦手なことに取り組むことも役に立ちます。たとえば、決めた時間に起きる、置きっぱなしにしないで直ぐに片付ける、時間を守る、などです。これらは犠牲の精神を養いますが、それだけでは神様との関係が見えて来ません。

 

犠牲とは、何よりも第一に神に捧げるものです。昔の人々は神殿の祭壇に捧げものをしていましたが、それが犠牲(いけにえ)でした。自分自身を捧げる代わりに、自分の大切な財産である家畜を捧げていたのです。自分にとって大切なものを神に捧げることが犠牲の本質です。神様を自分より大切にすることの表れです。しかし、時代とともに犠牲が形式的になり、犠牲を捧げる一方で人と対立して暴力を振るったり、下僕をいじめたり、悪口を言ったりしていました(イザヤ58章参照)。神より自分優先の生き方では、犠牲が神への捧げものになりません。まず、自分を神に従わせる覚悟と決心が欠かせません。

 

聖書は犠牲を「断食」という言葉で表しています。「私が望む断食とは、悪による束縛を断ち、虐げられた人を解放し、飢えた人にパンを与え、貧しい人を家に招き、裸の人に服を着せ、同胞の助けを惜しまないこと」(イザヤ58章参照)。この言葉は、イエスが教えた「小さい人にしたことは私にしたことである」を先取りしています。自分のための断食はダイエットの断食と同じです。もはや断食とは言えません。貧しい人に自分の食事を与える心で食事を断つなら、真の断食です。犠牲は神に捧げるものですが、現実的には隣人のために捧げることになります。隣人への愛が神への愛に重なります。「好きなものを控える」なら、それをウクライナの戦火で苦しむ人を考えて、苦しみに寄り添う心で捧げましょう。

 

聖ホセマリアは、「時として、笑顔が何よりの最高の犠牲になる」と教えました。隣人の欠点や弱さや身近な人の失敗など、批判したくなること、イラつくことに事欠きません。心の中で隣人への批判が出て来る時、笑顔で向き合うなら、大きな犠牲になり、同時に大きな兄弟愛の実践にもなるのです。■

 

5.神の物差しは「大きな心」

 

 放蕩息子の例え話で、兄は「父の言いつけに背いたことは一度もありません」と熱心さをアッピールしました。しかし、仕事を数や量だけでだけで見る熱心さは、かえって父の心を見えなくさせました。父親は、そこを注意しましたが、兄は全く理解できませんでした。兄の方は父の側にいながら、その心は父からも神からも遠く離れていたからです。信仰においても同じことが起こります。信仰を祈りや犠牲や行動の数や量だけで見る熱心さは、かえって心を神から遠ざけます。「私は、たくさん祈り、たくさん犠牲をささげ、奉仕や宣教活動もしたので、他者より優れた信仰を持っている」と勘違いして、他人を下に見るのです。それは、父である神の心の正反対です。

 

 愛徳の業でも同じことが起こります。無償の愛で奉仕することがイエスに倣うことですが、それを数や量で考えてしまうのです。私はこれだけ頑張っているのに、神は私の願いを聞いてくださらないと不満を持ってしまいます。兄弟を喜ばせようと親切にしても、それで相手が喜ばないと、兄弟に対して反感を募らせ、恩知らず、思い上がっている、鈍感、高慢、などと心の中で兄弟を批判するのです。親切の熱心さが、かえって兄弟愛を壊してしまうのです。

 

 信仰も仕事も、熱意は大切です。無気力、無関心は神の真逆です。しかし、方向違いの熱心さもまた危険です。悪魔に堕ちた天使は、「神のようになりたい」と熱望していました。神の高みまで登りたいと熱心に願っていました。アダムとエバも、悪魔の誘惑に騙されて「神のようになりたい」と強く思いました。いずれも自分が上に登って神を追い出してしまいました。誤った方向違いの熱意が原因でした。正しい方向は、上るのではなく、下ることです。「自分は相応しくない」と自覚しながら、神が愛してくださるので、「愛に応えたい」という愛の心で計るのです。

 

 愛は計算しません。損得を考えません。自分の都合を考慮しません。何でもできることをすべてしてあげたいのです。天の御父の心です。放蕩息子の父は天の父の姿なのです。「度を超える」のが特徴です。葡萄畑で夕方から一時間だけ働いた人にも1デナリオンをあげたい方です。1万タラントンの負債も帳消しにする方なのです。どうすれば、このような「大きな心」になれるのでしょうか?秘訣は反対を考えることです。「大きな心」の反対は「ケチな根性」、臆病、損得にうるさい、好き嫌いがある、文句や不平が多い等です。気付く度に改める戦いをしましょう。しかし、自分一人で決心しても、一人だけでは大きな心にはなれません。「大きな心」は「愛する心」ですから、相手が必要です。人間関係の中で鍛えるしかありません。

 

「幸せになるために必要なことは、楽な生活ではなく愛する心である」(聖ホセマリア著『拓』)。

 

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