何のために学校に行くのか
子どもが不登校になると
学校へ行くのがあたりまえ、
という常識を問い直すことになります。
学校という、勉強をやらざるを得ない環境を離れると、
強力で納得のいく理由・根拠がなければ
勉強を続けることはできません。
うちも息子が不登校になって、
いろんな角度から
ずっとこのことについて考え、息子と話しています。
学校の先生にもぜひ聞いてみたい質問です。
意外とありきたりな答えしかかえって来ないかもしれません。
上の娘も、「なんで学校に行くの」という事はよく言っていましたが、
彼女は小学校高学年のころ、
「学校の勉強は、
将来、自分が勉強したいものに出会ったときのため、
勉強のやり方を学ぶためにやっている。」
という答えを自分で見つけ、
納得しました。
以前、テレビで見たのですが、
才女を育てたお母さまは
勉強するということは
「世界を読み解く記号を理解すること」
だと説いていました。
たしかに。
文字が読めればいろんなものが読める。
譜面が読めれば音楽が演奏できる。
科学を理解すれば身の回りの自然の摂理が理解できる。
プログラミングを理解すれば身の回りの電化製品の仕組みがわかる。
「世界を読み解く記号を理解すること」
というのはいろんなことに通じるな、と思いました。
また別の番組では、
「学校の勉強は、学問を深めるための畑を耕すようなもの」
と説明している方がいました。
学校の勉強は、
それが自分の生活のどこと関係があるのか見失いがちですが、
もっと複雑なものを解明するための基礎をやってるということですね。
学校の歴史的に見れば
読み書きそろばんに始まって
やはり世の中をよく理解するために学校ができてきた気がします。
貧しさから脱するために教育が必要だったのだと思います。
でも、こうして考えると、
結局学ぶことは必ずしも学校でなくてもよい、
という結論に至ります。
学校は集団の中で社会性を学ぶために行かなければならない、
という意見もよく見かけますが、
社会性は、
ルールにがんじがらめの中で、
いじめの中で、
先生に理不尽に怒鳴られながら
横並びの教育を押し付けられながら
同調圧力の中で
学ぶものではない、と思います。
そんなことを考えていた時に出会った記事。
Forbesの
「子どもたちは何のために「学校」で学ぶのか? 学びの本質を問う」
記事の中では、学校の存在は
「すべての子どもに
『自由の相互承認』の感度を育むことを土台に
自由に生きるための力を育むため」
と説明していました。
そのためには
「学びの個別化」
が必要で、
学校は
「ごちゃまぜのラーニングセンター」
のような環境になる必要がある、と。
そうなんですよね。
息子のように苦手があると
周りと自分を比べて劣等感ばかり持ちながら
過ごすことになります。
学びの個別化が当たり前になって、
もっと自分も相手も認めてあげられるメンタリティになればなぁと思います。
学校の先生にも
こういう発想に転換してもらいたいものです。