私は幼稚園のときからいじめられっ子だった。
すぐ動揺して不安になっておどおどしていて、泣き虫と言われるほどすぐ泣いてしまう。
その割に空気を読まずに自分の思いをはっきり言ってしまうし、わがままで思いをなかなか曲げない子どもだった。
そして、クラスの人気者の、器用で頭も器量も良いあさみちゃんという女の子と仲良くしたくて、嫌がられても付き纏ったり媚を売ろうとしていた。
だから、いじめられて当然だったと思う。
私の良いところだと言われていたのは、小動物などの生き物にやさしかったらしいこと。
絵や工作などに夢中になって、独創的なものを作り上げるところ。
小学生になってもそのような特性といじめられっ子であったことはあまり変わらなかったと思う。
空気の読めない発言や不器用な所作をいじめられて馬鹿にされることが多かった。
ただし勉強と運動は、与えられたものに集中して周りが見えなくなり、それだけを必死にやってしまう性格のせいか、そこそこできた。
そんな中、自尊心の強い部分と弱い部分が同時に存在するようになったようで
自分を卑下して周りを笑わせることを覚えていった。
すると、その後成人するまで長く付き合った友達もできたりしたものだった。
また、不器用だけれど必死になって頑張るところもあってか、年上の人からは優しくしてもらうことも多かった。
左寄り思想の母や先生から、貧困国やフェアトレードの話をされて、いつかそういった国のためになることをしたいと初めて思ったのも、小学生の時だったかもしれない。
中学生になって、小学生の頃から休みがちだった学校を本格的に登校拒否した。
人間関係に耐えられなくなった。
自分の不器用さや心の醜さが嫌だった。
高校は親の勧めで通信制の学校に入学した。
入学はしたが、特に卒業する気もなかった。
中学生の頃から
「ホームレスになる」
と言ったりしていたが、本音はずるくて、それなりに結婚したりすれば良いのではとか
さして努力をしなくても何とかなるように思っていたと思う。
反面、自分の心の醜さは意識していて、早く死んだ方がいいと思っていた。
17歳でファミレスのウェイトレスのバイトをした。
留学する資金を溜めたかったし、何もしないでもいられなかったのだと思う。
軍隊式の女性フロアリーダー、なんだかんだでお世話になった店長、ヤクザのボスと付き合っていたという16歳の怖いヤンキー少女、風鈴職人になるのが夢だという自信がなくおっとりした少女、なぜか優しくしてくれた男の子、歳をとってもずっとバイトをしていたおじさん。
つらくも社会勉強となる仕事デビューだった。
18歳の時、景色の良い素朴な外国の風景の中で営まれる農家に就職し静かに暮らしたいと願い、アイルランドに語学留学した。
優しいホストファミリーと、優しい学校の先生と、そしてその学校にヨーロッパの非英語圏から来ていた7,8人の女の子の中の一人に、またいじめられる私。
でもそのヨーロッパから来た女の子たちの中に、私よりもっと不器用なオーストリア人の女の子が一人いた。
Nicoleという13歳の女の子だった。
他のヨーロッパから来た女の子たちの器量が女優並みだったのに比較して、Nicoleは性格まで誤解されてしまうような残念な容姿と表情をしていたのを否めなかった。
彼女は英語もあまりできなくて、母国語で話しても他の女の子たちに「は?」というような反応をされたりしていて、
優しいホストファミリーや学校の先生にまで冷たくされていた。
彼女の生い立ちに不運があったことを、その子と一緒に来ていた15歳の従姉妹のBarbaraに聞いて、Nicoleと仲良くしようと思った。
NicoleとBarbaraは、私と同じホストファミリーがあてがわれていた。
Nicoleは私に懐いてくれて、私が日本に帰ってからも、たくさんのシールが貼られた手紙を何度か送ってくれた。
Nicoleの従姉妹のBarabaraも手紙をくれた。Barabaraも変わった子だったと思う。
他のヨーロッパの女の子たちにあまり馴染めない様子で文句を言ったりしていたし、優しいホストファミリーに対しても鋭い観察の目を向けた考察を聞かされたりした。
貴族の血が流れる良い家の出身だったようで、英才教育を受けていることも教えてくれたし、会話の中でそれに見合う知識も披露してくれたりした。
また彼女はなぜか私を気に入って、しょっちゅう私に付いてきた。
誤解なのかもしれないけれど、まるで私に恋でもしているような目をしていたことも多く、ちょっと奇妙に感じることもあった。
でも、いつも自信のない私に、彼女は子どもの頃から知識のある大人たちとたくさん会話をしてきたしいろいろわかっていると言い、
「I know you have the brain power.」
と真剣な顔で私に伝えてくれた。
嬉しかった。
アイルランドでは、英語が発音できず筆談でやりとりをした内気でわがままだったフランス人のNadjaのことや
しっかり者で気が利いて乗馬が得意でみんなと上手くやっていて、でも私からするとちょっと堅苦しく感じることもあったEvaとのストーリーや
アイルランド(確かダブリン)に設立されていた日本人高校からやって来た日本人学生たちとの交流と考察や
知的で繊細ゆえに片田舎で英語教室を開設することになったフリーメーソンのような団体に傾倒していたらしいJohn先生との話もある。
私は半年弱、そんなアイルランド南部の片田舎に留学した。
帰国後、既に19歳になった私は、2年ほどで必死に通信制高校のレポートを完成させてテストに合格して高校を卒業した。
その間、バイトもしたし、大学進学のために予備校にも通った。
正直言うと、アイルランドに行ったからやる気になったわけでは無い。
アイルランドの農家に就職し静かに暮らしたかったが、願い叶わず、またどこに行っても結局同じような人間関係で悩むということもわかり、
更にアイルランドで、日本のことを聞かれても人口すらまともに答えられず、世界の話題にまるで付いていけなかった自分を自覚して、
とりあえずきちんと勉強しないといけないと思ったのだった。
そして、きちんとしないといけないと思ったのは、居酒屋でのバイトで出会った、「こんなに優しい人がいるなら生きてみようかな」と思った、恐らく本気の初恋の男性と出会ったことも大きかったと思う。捻くれ者でスーパー照れ屋で男性との接し方もまるでわからない私だったので、恋人に発展するなど夢のまた夢ではあったけれど。
勉強は苦痛だったこともあり、やる気の出ないことも多かった。
そこまで興味のないことを大量に記憶することはつらかった。
通信制の高校にも予備校にも、気晴らしに話ができる友達もあまりいなかった。
全くいなかった訳ではないのだが…
特に、過去飲み屋で働いていたことを誇りに思いつつスーパーのデリカ部で働いていた、5分経つと言うことがコロコロ変わるミナちゃん。
それから、初恋の人と出会った居酒屋でバイトをしていた時に出会った数人の女の子たちと、優しくしてくれた社員さん。
それから、この頃普及し始めた携帯で知り合った、悩みを聞いてくれた人達。
当時の人間関係を思い出すと、自分の稚拙さが恥ずかしくなることが多い。
そこから私は、看護短大に進学した。
4大やその他の公立短大など、他にも楽しいことができそうな大学にも合格したのに、堅固で実直な道をと思った。
留学との経験も合わせて、国境なき医師団で看護師として働くこともできるかもしれないとも思った。
そして看護の世界に足を踏み入れてみたら、案の定、女の世界の人間関係に揉まれるのである。
苦しくて耐えられなくなり、2年生の時に中退。
その後、ハローワークでみつけた事務仕事をするも、仕事内容の短調さや人間関係に嫌気が差して試用期間中に退職。
再度留学することを決意し、アメリカで情報の学士を取得した。
学士を取得した時は28歳。
アメリカでの生活は、お金をかけずに卒業し、いち早く人並みに仕事に就こうと、とにかく猛勉強と時々アルバイト。
夏休みには日本に帰国して、昼は塾、夜はキャバクラでバイトした。
塾の仕事は子どもとの触れ合いが楽しかった。
キャバクラの仕事はまるで向いておらず、恥をかいてばかりだった。
できるだけ学費を自分で稼ぎたかったし、自分がわからなかったのでいろいろやってみて、自分を探したかった。
そして、もうすぐ大学卒業という頃、私が夏休みに帰国していた際、父が自殺したのだった。
私へは、一言のメッセージを残して。
「いろいろ大変なこともあると思うけれど、がんばって幸せな人生を送ってください。大学は卒業してください。」
その後は、半年から3年のスパンで、就職しては転職を繰り返すこととなる。
仕事では、いつも何らかの人間関係で躓き、耐えられなくなる。
毎回異なるタイプの人間関係で躓くけれど、一つ共通しているのは、自分がいない方が良いのではと思って退職に至るということ。
私が我慢して周りに合わせていれば、自分が苦しくなって耐えられなくなる。
私がストレスを溜めないように自己表現をすれば、他の誰かが傷付く、他の誰かの邪魔になる。
何とかお互い生きられるように工夫しようとしてはどつぼにはまり、余計苦しくなって行くことが容易に想像できたり、実際そうなったりしてしまう。
距離を置くことでそれぞれが生きられるなら、第三者まで血を流すこともあり得る紛争を続けるより、その方が良いのではないか。
そこまでして私はその職にしがみつきたい訳ではないし、そもそも、生きていたい訳ではない。
生きていたい理由になるくらい好きなことや楽しいことがある訳ではなく、やっている仕事に生きている理由になるまでの意味付けもできない。
10代の頃に自分の醜さを痛感して、自分がこの世にいない方が良い人間だということを、あれほどまでに忘れたくないと願ったのを、今も忘れていない。
死にたいという以上に、自分という存在がいなかったことにして消し去りたいのである。
そんな風に考えて、退職に至り、それでも自分を変えたり環境を変えたりして、何とか折り合いをつけて居られる場所を探し続ける。
生きるなら、そうするしかできない。
好きなこと、楽しいこと、人生の意味を何とか探し続けて。
39歳を迎えようとする今、いない方が良い人間だということを再度踏まえて、子どもの頃からいつかそうしたいと願っていた発展途上国のためになることを、無心に行ったらどうだろうか。