天皇は、日本の長い歴史の中で、
ずーっと、途切れることなくおられて、
いらっしゃって下さることは、ごくごく自然で、当たり前のことなので、あたかも「制度」や「システム」のように言い表す、「天皇制」という言葉は、使うべきではない。
天皇陛下がいらしゃっる「日本の歴史」を、心から大切に思っている人たちは、そのように、おっしゃいます。
なるほど、一理ある、と思います。
democracy (デモクラシー)という言葉の、正しい訳語は「民主制」
そういう主張から、発せられる、
聞き慣れない、耳慣れない
「民主制」という言葉を、
読んだり、聞いたりする度に、
何故だか、とても胸が、心の痛みで、疼くのは、私だけでしょうか…。
(きっと、
そうだとは、思うのですが…。(笑) )
私は「民主主義」
という言葉が好きです。
「民主主義」という「思想・考え方」を、日本人が手にすることが出来たのは、第二次世界大戦の敗戦がきっかけです。
そもそも「民主主義」という概念が、日本人の中にないので、
(大正デモクラシー、というのがありましたので、一時、認識出来た時もあったかもしれませんが… )
GHQ指令長官マッカーサーが日本人に「民主主義的な憲法を作るように!」と指令しても、
日本人は、明治期に作られた「大日本帝国憲法」と、ほとんど変わらない憲法しか創案出来なかったほど、
日本人にとって、
「民主主義」という概念は、
とても「希薄」で、理解しづらいものでした。
「民主主義」なんて、面倒臭い。誰か、完璧に正しい「指導者」「独裁者」「主権者」が、国民全員が幸福になるように、決めてくれて、指導してくれればいい。
そうした考え方も、あると思います。
本当にその通りです。
そうだったとしたら、
どんなに楽チンなことでしょう。
けれども、「完璧に正しい」なんて、誰にも分からないし、誰にも証明することが出来ません。
人間せいぜい、分かるのは「自分」のことくらい、「自分」のことさえ、分からないことだって、あります。
先の大戦では、「天皇陛下」を祭り上げて、その旗印のもと、行け行け、ドンドン、で戦って、
日本人は、ああいった、とても苦しく、とても悲しい経験、体験をしました。
そういったことがないようにと、
反省の上に立って作られたのが、
民主主義的な『日本国憲法』です。
この『日本国憲法』では、
「象徴」として、日本の「シンボル」として「天皇陛下」がいて下さって、
「日本の国」のことは、日本の国民、一人一人が考えて、みんなで決める、
そうした制度の国であると、
定められました。
『自分たちが決めて、責任も自分たち』
という、
「考え方・思想」の元の制度です。
では、
今の日本で「民主主義」という概念は、しっかりと定着しているのでしょうか。
そんなこともあり、
「民主制」なんていう、
冷たい、
「制度」を言い表す言葉ではなくて、
「民主主義」という、「考え方・思想」をもとに、自分たちは生きているんだ、
そういう表現で良い、と
私、個人的には、そう思います。
「制度」という状態だけでは、
まだまだ無機質、冷たいもので、
それに、
「人間=主権者・国民」が
「生命」を吹き込み、
創意工夫をしつつ、
きちんと運用してこそ、
血の通った、暖かいものとなります。
だから、単に訳語が正しく、正確だから、の理由で「民主制」と、あっさり、簡素に使うよりは、
その運用の中身、「思想・考え方」をしっかり認識することが大切なのだ、
という思いを込めて、
「思想や考え方」が
「希薄」にならないためにも、
「民主主義」という言葉を大切にしたい、
というのが、
私の今の思い、正直な気持ちです。
(故に、長年愛用の研究社『新英和中辞典』にも、1.民主主義 2.民主政治 3.民主主義国家 と出てありますので、そちらを採用致します。)
因みに、敗戦後の日本を「民主主義国家」に指導してくれた(?)、本家本元のアメリカの現在は、
0.1%の資本家が支配する国となっており
「民主主義国家」でもなんでもない、
ということです。
ならば、アメリカの占領下に等しい日本は、尚更です。
もっと言えば、
先勝国アメリカから、敗戦国日本に与えられた「戦後民主主義」という代物は、
忍耐強く、勤勉で、真面目な「日本国民・日本人」が一致団結して「強くなる」ことを恐れ、また、
アメリカに歯向かうことが決してないようにと、
随所に『日本国家 弱体化』のプログラミングを忍ばせてもある、
という、ことです。
日本の「戦後 民主主義」には、
そうした、複雑な経緯があり、
そして『日本国 弱体化』プログラムの、
深い打撃、影響、後遺症を、
実は、
現代に至っても、日本人は引きずっていて、
アメリカ『支配の罠』に
縛られている、
ところがある、そうです。
今一度「民主主義」について、
思いを馳せるのも、
また
意味深いものだと、
思います。