比較は泥棒でもあります。
比較に関して、次のような事が言われるのを耳にしたことがあるかもしれません。

「比較は心の平安を消す
「比較は喜びを盗む
比較はあなたの可能性を奪う

人と比較することで、私たちの心や精神が奪われ、殺され、破壊されるのです。
そのため、
比較は敵が攻撃に使う道具だと考えられます。

聖書アプリ•プラン「比較からの解放」アンナ•ライト著より


ブログにご訪問頂き、
いつもありがとうございます。

 〇〇を「したいと思わない」​賜物


私は幸いなことに、
日常を過ごす中で

他者にマウントしたり、
自己顕示欲に任せて発言したり、
求められていないアドバイス
(相手のためではなく、自分が気持ち良くなるために)

をするということが、殆ど無いな
と感じます。

もし、何かをいいかけて、
(でもこれ、上から目線にならないかな)
と思ったら、一旦黙ります。
そうしたくなるのです。

もちろん状況次第で
良くも悪くもにはなりますが、これは、

主からの賜物

だと思っています。
まず、
やりたいとも、思わないので、

「つい感情に流されてやってしまった」
みたいなことが起こりません。

また、間違えることはありますが、

頼まれていないのに
相手のプライバシーに踏み込み、
お節介や口出しをする事も避けています。

これもしたいと思わないのです。

それ位、自分に対し

「人に良い人だと
尊敬されなければ価値がない」

みたいには思わないし、
誰にも神様の導きが働くと思うからです。


この点については、お陰様で
罪を避けられているし、
落ち着いていられている

のが、ありがたいです。
だから、逆に、大人しいと思われて、

これらの行為を
される側には、よくなります。

これまで、
そんな時に感じることがかなり深くて、
長く言葉にできずにいましたが、

やっと少し言葉にまとめられる感じになった
ので、テーマに取り上げました。

 私が、​彼らに感じていること


やはり、色々言われると
良い気持ちにはならないですが、
(自分以外の人同士がやっているのを見ても)
それより

彼らの中にいつも感じ取るのは、
不安と焦り、恐怖心や無価値感

です。

これらの言動をしないと不安なのだろし、
自分を守ることへの必死さ

を感じるのです。

自分が低く見られる事よりも
そちらの方が辛い時

が、あります。

一体何からそんなに
自分を守りたいのだろう?

私は何も
「強く出てこなければ、
あなたを見下します」

なんて、言っていないのに。
むしろ穏やかに、仲良くしたかったのに

そして、
「やり返したい」
とは思わなくても、

「人と比較して羨ましく思う」
気持ちなら、私にもあります。

そんな時、
聖書アプリのあるプランを初めて、

「比較は盗み」であるというテーマに衝撃
を受けました。

7日で読み終わるため
大変お勧めできます↓。



誤解しないでほしいです。


私は色々言われやすく、感じやすく、


辛くなって閉じこもる時がありますが、

許していない人はいません。


皆がこのような盗みから

自由を取り戻し、

不安から解放されることを願っています。



 ​比較の不安を消して貰えた時の事


私に比較の気持ちはあっても
それを他人に表現したいとすら思わない
ことについて、

不思議に思う方
もいるかもしれません。

「嘘でしょ」

と思われるかもしれませんが、
ある時からすっかり取り去られました。

10代からバレエをやっていたのですが、
大きな怪我が発覚し、

それと同時に
聖書を読むようになりました。

普通は、治療を頑張って、
復帰できればそれで良いと
考える
と、思います。

勿論それは充分凄いことですし、
私も治ったので、
お世話になった方々に感謝しています。

でも、その時の私は、
色々わかった事があったので、
復帰がどうなるにせよ、

バレエにまつわることは全て
神様に捧げ
ました。

復帰できるかどうかの問題も委ねましたが、

復帰した場合でも、

の可能性、名誉、賞賛全てを、
神様に捧げることにしたのです。

後に詳細を書きますが、
自分の心の状態について自覚し、

神様にお任せするしかないと感じた
でした。

他のことについても、

これから何か良いことができたら、
私の良い事は全て神様に捧げたい
と思い、

その気持ちを祈り続けました。

そうしたら、キレイに
変な不安感や競争心が消えていった
のです。

もし、天国に行くなら
「天国での人生」の方が長いですから。
地上での優劣は一時的な事だと思います。
地上で競うより、もっと長い命を得て、
優れた物を磨くほうが良い
です。


​比較や競争に意味はない

 


この様にしたのは、
それまでいかに、

自分の目的ばかりを優先して
他者をどこかで背景みたいに見ていたか、


キラキラしたことばかりに
目を向けて、
自分中心でダサかったか

を、わかったからです。

ちょっとくらい着飾ったり、
隣の人より何かで秀でたとしても、
私は、ダサかったのです。

この事実を受け入れるのには
勇気が要りましたが、

それだけ私も不完全な人間だったし、
事実でもありました。

子供の頃、
私自身はおっとりしていましたが、
周りの大人は競争に参加させることを
好んで
いました。

そして、
受験戦争やスクールカーストなど
色々な事を通して、

「周りと比べて劣っている事は恥」
「蹴落としてでも人より秀でる事が、善」

みたいな思想(=偶像崇拝)を
認める様になっていたこと

気づきました。

両親には感謝や尊敬をしていますが、

世の中には
そういうおかしい信仰があり、
密かに人間を汚染して

しまいます。

そうして、昔は私も、
闘争心や比較の気持ちが強く、
周りにも比較されて育ったので、

はしたない発言や行動が
多かったとは思います。

見事に品性を盗まれていました。

だから、今、
純粋な子供たちが守られてほしいです。

↑比較や競争に意味がないことを
わかり始めていました。教会などでもたまに
「誰よりも誰の方が先輩クリスチャンで、
信仰もしっかりしている」
みたいなヒエラルキーを見かけますが、
結局それも人間が考えたことにすぎないと思います。




勉強や仕事でも、

他人を蹴落とそう、出し抜こうと
と考えたこと
もあり、

ただのヤバい人間でした。

だから、
いかに皆が不安なのか、
わかります。


周りよりで秀でることが全ての様で。

「できない」「劣っている」
自分は無価値で、
どんな扱いをされても仕方がないかのように
感じて
いました。

(パワハラやいじめなどであれば、
やる側の問題と罪であり、
優劣の問題とは全く別なのですが。。)

だから
今の落ち着いた今の状態は
全て主に作り変えられた賜物
なのです。

不安や焦り、恐怖心を
イエス様がきれいしてくれた
のです。

もし、今人との比較や
それに関する焦りや不安があっても、
誰でもイエス•キリストによって
クリーニングされる
と思います。



 

 ​最近、聖書が読みたくて仕方ない


「通読しよう」と思うまでに
10年以上かかったし、

最初の通読には2何位かけた私でしたが、

2回目、3回目の通読、
そしてより深い理解は
もっと早いだろうと、

既に目処が立っています。

これは聖書アプリの違うプランですが、
リンクを貼ります↓通読できるプランです。
「口語訳」での通読を同時進行しています。

タイマーを設定し、その時間内は
ソーキングワーシップミュージック
を流しながら
音読すると読みやすいです。


内容がダブルで頭に入りますし、

色々な媒体で聖書に触れると

理解の役に立ちます。


 まとめ


長くなりましたが、
読んで下さり、
ありがとうございました。

自分の恵まれたことについて書くのは、
傲慢なんじゃないかとかも、
思いましたが、

神様の良い事は
隠しておくべきでは無いです。

また
私も元は汚れた心の人間で、
神様によってクリーニングされたことを
わかっていただければ嬉しいです。

平安がありますように。