「天竺徳兵衛新噺」より小平次の怪談 | 木挽町日録 (歌舞伎座の筋書より)

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平成2年7月歌舞伎座、

市川猿之助歌舞伎座公演二十周年七月大歌舞伎の筋書より

 

「天竺徳兵衛新噺(いまようばなし)」の上演によせて脚本演出奈河彰輔の寄稿から一部

〝徳兵衛観念、小平次成仏〟と題して

 

文化元年(1804)四世南北が初代松助に書きおろした「天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)」は新しい江戸世話狂言、特に怪談狂言の記念すべき第一作で大評判を取り、その後いろいろ書き替えられ、上演を繰り返し、文化5年(1808)同じコンビで初演した「彩入御伽草(いろいりおとぎぞうし)」では、この天竺徳兵衛の物語に、小幡小平次と播州皿屋敷の怪談を、ないまぜにして上演したという記録があります。この古事を真似、徳兵衛と小平次を結びつけて構成し、昭和57年7月、歌舞伎座で復活上演したのが、この「天竺徳兵衛新噺」で、今回は四演目に当たり、「猿之助十八番」の中でも、とり分けて思いの深い作品です。

小平次の方は、徳兵衛とは逆にまことに陰気な人物です。奥州安積郡の出身で、若い頃、松助の門に入り、2、3年江戸で修業した後、故郷へ帰り、旅廻りの役者をして居りましたが、留守中に女房が密男をこしらえ、遂には二人に殺されたという哀れな人物です。この横死の一件を聞いた松助が南北と相談してこしらえたのが「彩入御伽草」ですが、本読みの夜、三階の羽目板をトントンと叩くものがあり、その後も松助が激しい熱病にかかったり、その妻女の顔が男の相になったり、鉄瓶の口から熱湯が飛び出すなどの怪異が続いたので、小平次の祟りに相違ないと云うので両国の回向院で盛大な施餓鬼をして霊を慰め初日を出し、大当りをとったものの、その後小平次の狂言を出すと必ず祟りがあったと云うぐらいのまことに執念深い怨霊なのですが、それだけに男の幽霊の代表としていろいろな狂言に取りあげられております。南北の代表作「四谷怪談」の小仏小平も、この小平次が原型となっています。

先年、歌舞伎座で初演した折、小平次を惨殺する役の一人に扮した市川段猿さんが、原因不明の高熱を出した上に右手を負傷、大道具さんにも怪我人が続出し、とうとう中日近くに猿之助その人が足指を骨折して休むという羽目になりました。そこで昭和58年4月、明治座での再演に際しては、故事にならい回向院で小平次さんの霊を慰め、無事に千穐楽を迎えたのですが…。それから七年相経って、今年2月、大阪新歌舞伎座で三演することになった所、ついお詣りを忘れた故でしょうか、初日が開いて間もなく、今度は澤瀉屋の声が出なくなり、又もや休演になりましたから、小平次の祟りの恐ろしさに楽屋雀は震え上がり、今後この狂言は「お止め」になるだろうという噂しきりだったのですが、澤瀉屋は「おっかけてすぐに出す」と申し、先ずは今月上演と相なった次第です。もちろん今回は回向院で、スタッフ、キャスト打揃い盛大なお供養をしましたし、猿之助の執念に免じ、小平次さんも、追憶増上仏果、今度こそ成仏して舞台を見守って下さることでしょう。

 

猿之助の聞き書き(土岐迪子)

本所回向院で小幡小平次の法要を済ませた猿之助は「無信心で、以前お詣りしたことをすっかり忘れていました」と苦笑する。「二十年の間に休演したのは八年前の『天竺徳兵衛』初演の時だけです。完演出来なかったのはまことに残念で、今度再挑戦します。小平次とおとわの件りは、いわゆる小味な芝居。おとわは『お染七役』のお六のようなイメージですね。やっていてそりゃあ面白いですよ。初演では最後に踊りを入れましたが、前回大阪でやった時に取りました。」

 

と猿之助ご本人は屈託がない。

初演時、昭和57年7月の筋書に挟まっていた代役のお知らせ

昼夜公演それぞれ、一座の立役総動員、

「天竺徳兵衛」の小平次と女形の替わりは七代目門之助。

 

翌年正月の筋書には前年12ヶ月の上演記録が載るので確認

2日初日だが、7日に回向院で小平次供養とある

(役者が出席したかは不明)

しかし12日に猿之助骨折、21日に復帰と書いてあります。

(昼の演目差替えなども今はあまり見ない変更演出)

14日にも安全祈願のお祓いの記述あり。

 

昭和58年4月 明治座公演の時の演劇界劇評から

山口龍之輔

昨年7月、歌舞伎座夜の部で初演し、途中で猿之助の右足指骨折というハプニングがあって、しばらく休演した、いわくつきの狂言である。事故のあと数回、当の猿之助に会ったが、彼はビデオを見ての感想として「休んでるうちに無駄なところがよく判った。次回はそこらを浚えて、すっきりさせたい」と話していた。

と、タダでは起きない冷静なところは当代猿之助もかくや。

 

平成2年2月 大阪新歌舞伎座の演劇界劇評から

福島秀治

因縁といえば猿之助がこの狂言を演じる時、幕内には俗にいうたたりともとれる事故が過去の公演では重なったらしい。ところが大阪新歌舞伎座でも五日目になって突然、猿之助の声が出なくなり休演とあいなった。徳兵衛の物語にからませた小幡小平次の陰な噺の方にイヤな予感がしないこともない。女房に密男された上、殺される哀れな男。死んでも死にきれずにその亡霊が舞台狭しと飛び回る。

 

平成2年7月 歌舞伎座の演劇界劇評から

野村喬

歌舞伎座初演の折に「続・獨道中五十三驛」のタイトルで上演したものだが、猿之助も含め怪我人が続出し、今年二月の大阪新歌舞伎座公演では風邪で途中休演したりした因縁があったが、完演をめざしての挑戦となった、と聞く。両国回向院で小平次の霊を供養して、通しを実現するろいうからには十八番の狂言を完成する意欲が十分伺えた。

 

三代目猿之助舞台写真

 

三代目のあとは当代猿之助が亀治郎の名で2012年2月博多座で初演、

その後6月に四代目猿之助を襲名して2012年11月明治座と続けて上演した。

 

小平次を扱った怪談は随分あるが、その中の一つで

平成20年6月の歌舞伎座

「生きている小平次」上演によせて山川静夫の一文

 

『東海道四谷怪談』には小仏小平が登場して殺されるが、安積沼怪談の実説を下敷きにした人物らしい。旅役者小幡小平次の女房に男ができて、その男に小平次は殺されたことになっているが「小平次は薄気味わるい人物で幽霊にうってつけ」と実説らしきものは伝えている。この話は鶴屋南北の作品『彩入御伽草』という芝居にもなり、鈴木泉三郎はこれをヒントに工夫をこらした。大正14年6月初演当時は新鮮な感覚の作品と映ったようだ。六代目菊五郎の太九郎、鬼丸(のちの多賀之丞)のおちか、十三代目勘弥の小平次だった。商業学校の夜間部をやっと卒業して劇作を志した苦労人の泉三郎には『次郎吉懺悔』『ラシャメンの父』などもあるが、代表作といえばやはり絶筆となった『生きている小平次』であろう。せめて〝生きていたかった泉三郎〟を、はなむけのことばとしよう。

 

参考に「東海道四谷怪談」小仏小平

通例では浪宅で伊右衛門が伊藤喜兵衛を殺してしまう場面か、戸板返しでお岩の裏で出てくる場面だが、珍しい〝又之丞隠れ家〟の場面の小平。霊になっても主君に尽くす小平の姿。

2015年12月国立劇場。

 

「生きている小平次」小平次

現幸四郎の小平次、白鸚の太九郎、福助のおちか

2008年6月歌舞伎座。