「京人形」の後半の演出の違い | 木挽町日録 (歌舞伎座の筋書より)

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趣味で集めている第4期歌舞伎座の筋書を中心に紹介

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常磐津、長唄の掛合いの舞踊仕立ての芝居といった演目で

前半は人形の役の面白い振りが眼目だが、甚五郎が隻腕となる後半で

昔と今とで変化している演出がある。

まずは順を追って筋書に載ったあらすじを追ってみると…

 

★昭和26年8月 歌舞伎座の筋書より 振付藤間勘右衛門

その最中に甚五郎の女房おとく慌て出で来て、医者眼斎がかくまっていた兼冬の息女井筒姫を出せと急な督促と告げる。甚五郎は咄嗟の機転で、その人形の首を打ち落し、井筒姫の身替りとして眼斎に差し出すのだった。それを陰で見ていた奴の幸平はてっきり本当の井筒姫の首打ち落としたのかと思い、物も云わせず甚五郎の片腕を切り落とす。

 

★昭和46年12月 南座の筋書より 振付藤間勘右衛門

そこへ、甚五郎がこの家に匿っている井筒姫の行方を探していた奴の照平が飛び込んできて、あやまって甚五郎の右手を切りおとしてしまいました。甚五郎は詳しくことの仔細を打ち明けて姫を照平に逢わせて二人をそっと落としてやり、追手が大工姿で飛び込んできて甚五郎に打ってかかるのを、左手一本で迎えうち目ざましい働きを見せます。

 

★平成2年2月 歌舞伎座の筋書より 振付藤間勘斎

それも束の間、甚五郎は旧主の妹井筒姫を匿っているが、それがバレて渡せと迫られていると女房のおとくが知らせる。甚五郎は機転を利かせて井筒姫を橋場の寮にお連れして、身替りには人形の首を討って差し出して難を逃れる。ところが、姫に仕える奴の照平は、本当に井筒姫を討ったものと勘違いして、甚五郎の元々は利き手であった右腕を斬りつけてしまう。事情を知った照平はうろたえるが、甚五郎はわが身の難は意に介さず、姫のあとを追って守護するよう照平を促すのであった。

 

★平成27年8月 歌舞伎座の筋書より 

実は甚五郎は旧主の妹、井筒姫を匿っていた。そんな井筒姫に執着する松永大膳は栗山大蔵を差し向け、姫を差し出すように迫る。これに対して、大蔵を隣家で待たせるように取り計らった甚五郎は、その隙に井筒姫を逃そうとする。そこへやってきたのは姫に仕える奴の照平。甚五郎が姫に危害を加えると者と勘違いした照平は、甚五郎の右腕を斬りつける。だが姿を見せた井筒姫から詳細を聞いた照平は、自らの非を覚り、甚五郎に許しを乞う。一方甚五郎は照平に井筒姫を預け、一刻も早く橋場の寮へ逃れるように促す。

 

まず平成2年の筋書では、井筒姫の身替りに人形の首を討って差し出す。と書いてあるものの、実際の舞台ではその場面は無い。唄の詞章に残るのみである(元になった芝居の名残りという解説あり)。そのために京人形のくだりと物語の繋がりが無く、後半の展開が唐突な印象になっている。平成27年の筋書のやたらと丁寧なあらすじがその矛盾を埋める苦心の作。

 

それから、姫を先に逃し後から来た照平に切りつけられる演出と、姫は一旦奥へ入り照平が来て切りつけられてから姫が再度出てきて一緒に逃す演出の違い。

 

さらに照平が甚五郎の右腕を切り落としてしまうか、傷を負わせるだけかの違い。

(これは、後述するが、私の勘違いの可能性もある)

以上の三点が大きな演出上の違いかと思われる。最近は平成27年の演出が基本。

 

平成2年2月、

甚五郎を演った幸四郎(現白鸚)の聞き書きが過去の演出に詳しい。

 

「京人形」も実を申しますと、松緑のおじが病床であれをやれこれをやれといってくれた中の一つで、染五郎と一緒に中幕に出すといいんじゃないかと言われたのですが、こんなに早く実現するとは思わず、とんで行っておじに報告したい気持ちです。この踊りは藤間勘誉さんが、おじの舞台を初期の頃から甚五郎はもちろん人形についても、細かいところまでその時々の舞台を覚えていらして、もうビデオテープも真っ青です。それで今月の中日ごろからお稽古にかかっています。ご存知のようにこれは長い長いお芝居のキリでして、まずそれを肚に入れてつとめます。高麗屋のおじいさんが演じたころはお姫様の入りこみがあり、あとで奴が出てきてからも匿ったいきさつなどやり取りがあって、おしまいも、甚五郎がざるに入れたかんなくずを放る、若い衆がギバのようにひっくり返ったのを下手から甚五郎が見込む形で幕になるのが古いやり方で、播磨屋のおじいさん(初代吉右衛門)の「腕の喜三郎」の幕切れの形がいいので、取り入れたのが今日まで続いているそうです。それと昔は、長唄が終わったあと改めて上手の障子をはらうと、山台にずらっと木彫りの人形が並んでいたのですって。いろいろ話を聞きますと、「京人形」自体随分洗練されてきた反面、お芝居っ気がうすくなって来たとも言えますね。おじは生前〝二代目勘斎振付〟と名前を出すのをきらっていましたけれど、感謝の意味もこめて、今回は記します。

 

文中にあった七世幸四郎の甚五郎の舞台写真(平成5年8月の筋書より)

 

長唄は上手の障子内

 

常磐津は下手の黒御簾前

 

手負いになった甚五郎の姿を比べてみる

白鸚の甚五郎

 

勘九郎の甚五郎

 

切られた腕が見えているか、完全に隠されているかで

傷付いただけか、切り落とされたのか、の解釈の違いと思っているがどうだろう。

単にズレて見えてしまっているのかもしれない。