人の上を列車は走る | TC隊長

人の上を列車は走る

つづき








。。








明治45年に掘削が始まった常紋トンネルは大正3年10月にめでたく?完成しました。



(百数十人が非道な扱いの元に犠牲になったことは信じられぬままで‥)









トンネルが開通して常紋信号所が開駅し、
列車が走り出すようになると次々と奇妙な噂が流れ出しました。





「信号が消えたり点いたりする!」





「トンネルの壁から血まみれの男の幽霊が現れた!」




常紋信号所勤務の職員やその家族は次々と病気にかかり亡くなったり、
理由も無く列車に飛び込み自殺したり‥





「これは犠牲になったタコ達の怨念ではないのか?‥」





タコ部屋労働者が凄惨な殺され方をした噂を信じなかった地元住民達もさすがに困惑し、
先ず昭和12年に常紋峠に供養碑が建てられました。





その後トンネル近くの線路際から人骨が何体も発見され、
昭和34年に常紋駅に歓和地蔵が建てられるまでに全部で49体が発掘されました。





そして、トンネル開通から実に60年近くも時が過ぎた昭和45年、、
トンネル内補修工事の最中、走行してくる列車を避けるための待避所の壁の裏側から人柱として埋められた立ち姿の人骨が発見され、
人々は驚愕させられる‥





幽霊話も合点がいくわけです。。





これを期に昭和47から本格的な発掘調査が行われ、
昭和55年までになんと10体の人柱が発見されました。





その霊を追悼するための慰霊塔が、常紋峠の北見方にある金華駅前の丘の上に建てられ、
そこには首をうなだれた若いタコ部屋労働者のレリーフが掲げられています‥





そして同時に怪談話も無くなってゆきました。





常紋峠で列車を撮影される人は少しだけ時間を割いて慰霊塔で手をあわせてあげたなら、
犠牲になった人々も報われるのではないでしょうか。。








【父の教え】








隊長の父は北見紋別の生まれですが、わずか四歳の頃に遠軽町の酪農家に養子に出され、
学校にも満足に行かせてもらえず毎日早朝から深夜まで働かされてきた人です。





遠軽町を通る鉄道も国道も網走監獄の囚人さんやタコ部屋労働者が開削してくださったものであり、
父の家の正面が線路、裏が国道といった環境であったため自然と強制労働者との関わりを持つようになったようです。





父の育ての親がタコ部屋から脱走してきた人に食事を与え、
家の納屋で何日も匿った(かくまった)ことがあり、探しにきた憲兵(警察)や監視人を欺くのが大変だったこと、



家の近所に建設中のダム工事現場に幼い父が働きに出された時、
タコ部屋労働者と共に仕事をしたこと、



ダム近くの湧別川に架かる鉄道橋の橋脚には、
実は今でも人柱が眠っていること、



遠軽町青年団の団員として、道路際に埋められたタコ部屋労働者の人骨を37体も掘り出したこと、



その人骨にはまともなものが無く、
頭蓋骨に五寸釘が刺さっていたり、
脳天とこめかみに穴が開けられて鎖が通っていたり、
口の中が無理やり詰め込まれた石でいっぱいだったり、
歯が全部抜かれていたり、
凄まじい拷問を受けて亡くなった様子がうかがえたこと、



まだまだそこらじゅうに埋まっているけれど、日数が足りなくて全部の人骨を掘り出してあげることが出来なかったこと、、





雨が降ると人骨が埋まってる場所には青い火の玉(リン)が上がるそうです。


お馬鹿な怪談話ではなく、骨に含まれるリンが雨水と化学反応を起こして燃えるのです。








「ここにいるよっ!」ていうサインのようでもあります。








これまで記してきた強制労働のお話はほんのほんの一部のお粗末なものであり、
残念ながら北海道の鉄道・道路・炭鉱・鉱山・人造湖・ダム建設等、全ての事柄に強制労働が関わってます、、

北海道開拓史はそのまま血塗られた歴史に他ならない。





でも、学校の授業で習わなかったですね。








。。








リバイバル急行列車の楽しい話題のはずが物凄い脱線の仕方をしてしました。





要は今現在でも列車は「人の上」を走ってるってことです。。