伝説の報道写真家「福島菊次郎」 | ほくとの気ままなブログ

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遅ればせながら、平成25年新年あけましておめでとうございます。

年明けから、ちょっと風邪をひきつつ(万年風邪の私ではありますが)過ごしております。

また今週末の土日は九州に出張があり、その準備などでなんやかんやでばたばたしておりまして、ブログもついつい今日まで・・・。

正月気分はいずこへ~!


ここ最近は自民党政権になり「アベノミクス」などとマスコミでもとりあげられ、景気が回復傾向になるか?期待をする報道が盛んに行われております。景気が回復することはいいのですけどね。福島原発の事故の後処理などなど原発関連の報道も大変少なくなってきていますし、また処理の問題についてもいい加減な除染しかり色々と問題がでてきたりしています。原発いるのか?いらないのか?選挙が終わればどこふく風?景気回復が最優先でしかたないのでしょうか?それとも日本人の国民性?、時間と共に忘れてしまうことが原因か?

何か一つ間違えると、よからぬ方向へ行ってしまうような予感すらします。



そんな今だから、今年最初のブログ、伝説の報道写真家「福島菊次郎」さんをご紹介。



ふくしま・きくじろう 報道写真家。1921年3月15日生まれ、91歳。山口県下松市出身。郷里で時計店を営むかたわら、46年から広島で被爆者の撮影を開始。51年、原爆症に苦しむ中村杉松さん一家と出会う。以後10年にわたる苦闘をまとめた『ピカドン ある原爆被災者の記録』で日本写真批評家協会賞特別賞を受賞。その後、プロ写真家として活動を始め、安保、学生運動、三里塚闘争、公害、原発など幅広いテーマを精力的に取材してきた。『写らなかった戦後 ヒロシマの嘘』など写真集、著書多数。

 激動の戦後日本にレンズを向けた姿を追った映画『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』が、昨年からから全国各地で上映されています(単館上映)関東では2月に新宿で上映されるから観にいこうかなぁ。http://bitters.co.jp/nipponnouso/


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福島菊次郎さん、たぶんほとんどの方が知らないかもしれませんが、知る人ぞ知るというおそらく現存する日本人の中でも、12を争う程の反骨精神を兼ね備えた生粋の戦士でしょうか

福島さんは、もともとは一般的な軍国少年でした。その福島さんが1944年召集され軍事訓練を受けたのが広島。二度めの召集は沖縄が玉砕した後の敗戦色の濃くなった時期。彼の所属部隊は原爆が投下される直前に広島を離れ、九州で自殺部隊としてまさに出撃しようと待っていた矢先に、敗戦を迎えました

原爆投下2ヶ月後、広島の街を訪れた福島青年の目に写ったものがその後の人生を決定づけたといわれています広島との関わりが、被爆後の広島、被爆者の生の姿、被爆者医療の現場、ABCC(日米合同原爆障害調査委員会)  などの写真を撮り続けることへ駆り立てました。世の中に知らされない被爆者の生の苦しみを記録し、写真展や写真集で発表することで、被害者の恨みをはらしたいという、被爆者(弱者)視点に立つ行動です。一貫しているのは日本という国家への反骨精神。その犯罪的な体質や嘘を隠されてしまった闇の側から引っ張り出し、世の中へ見せつけるというスタンスでしょうか被爆者だけでなく、大学紛争当時の機動隊と学生との衝突の場面や、三里塚や、明確な憲法違反の産物である自衛隊にまで入り込みますもちろん3・11の福島も訪れています



抵抗の涯てに ~写真家・福島菊次郎の"遺言」ドキュメント番組の中で福島さんの印象的な言葉がありました。

日本人は我慢強い。だからいい加減な政府にうまいようにやられてしまう




以下のような記事がありましたのでご紹介(コピーさせていただきました)。
戦後もモルモットにされた罪なき人々----------------------------

被爆者から多量の採血をした上、何枚もレントゲン写真を撮って、放射能を浴びせかけるという追跡調査だった。検査は強制的で、拒否するとピストルを持ったMPが連行した。

ABCC(日米合同原爆障害調査委員会)は調査対象の被爆者が死亡すると葬儀の最中に現れた。執拗に遺体の提供を求め、悲しみに暮れる遺族の感情を逆なでした。
ABCC1948年から2年間だけで5千人をこえる人体解剖を実施した。

*ABCCは被爆者の治療には一切あたることはなく、米軍の核開発の資料とするのが目的。現在は、「放射線影響研究所」と名を変えて被爆者の追跡調査を行っています。

真実を恥部として隠す「嘘っぱち」---------------------------
人をとことん道具にし尽くしていく「戦争」に対する深い怒り・・・
福島青年は、自分同様に残された人々を撮り始めた。
原爆スラムで暮らす人々
何の罪もない。原爆で家族を失ったただの一方的な被害者。
戦争を始めた国が責任を持って救わなければならない犠牲者の方々。
その国が何の責任も取らずに見捨てたとき、原爆スラムは「広島の恥部」と呼ばれた。
何が、恥部だ?
その人々を幸せにすることが、国への信頼と希望を紡ぐことだろう。

その嘘は、今現在、福島原発事故で繰り返されている。
あの事故は、日本が戦争から何も学んでいなかったことをさらけ出した

事実を直視しなければ、
気持ちを拾い上げることをしなければ、
そうやって思い知らなければ、
人は永遠に同じ事を繰り返していく

加害者として向き合った戦争犠牲者-----------------------------
そのスラムで、中村杉松さんと出逢う。
撮ろうと構えたが、振り向いたその顔を見たとき、撮ることができなかった。そして、2,3年が過ぎたとき
ピカにあってこのざまだ。このままでは死んでも死にきれない。仇を取ってくれ!!」と、涙ながらに中村さんに頼まれ、撮り始める。
『仲の良かった同級生は上海戦、南京戦を戦い残虐行為をやった。もし戦争に行っていたら、僕も相当悪いことをしただろう。戦争に行けば死ぬのはわかっていたから』その戦争犠牲者が目の前にいた。

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(写真お借りしました)

天皇と対決した個人--------------------------------------------
しかし、彼の舞台である『メディアが自己規制を始めた。僕の写真は敬遠され、最後の二年は月刊誌にほとんど使われなくなった。ここにいたら、僕も一緒に腐ると思った』
僕も一緒に腐ると思った”―この気持ちよくわかる。
これを実感したからこそ、私も会社を辞めたのだ。
66歳。胃がんの宣告。国への怒りは、彼の体をも蝕んでいた。
67歳。手術後に天皇の下血報道を聞く。
『このままトンズラされてたまるか』自分なりの決着をつけたいという思いが、写真パネルの自費制作に向かわせた。
「天皇の戦争責任展」かつての軍国青年は各地で右翼の妨害に遭い、発砲事件も起きた。が、報道により全国から申し込みが殺到した。
無言電話や脅迫電話、「そんなにこの国が嫌いなら日本から出ていけ」という罵声の中、彼は苦しまずに死ねるように青酸カリを忍ばせて巡回した

勝てなくても抵抗して、未来のために一粒の種でもいいから、蒔こうとするのか、それとも逃げて、再び同じ過ちを繰り返すのか。一番弱い者を最も苦しめるのが、戦争だ。この国の憲法を変えてはならない。


自衛隊では防衛庁の信頼を得るために最初は御用カメラマンよろしく広報写真をとっては発表した。以前からの仲間には「福島はいつの間にか体制に身売りした」とまで噂された。彼はしめたと思った。「敵を欺くにはまず味方を欺け」という作戦であった。

こうして自衛隊の関連施設や日特金KK、三菱重工、三菱航空機、日産プリンスなど兵器産業なども撮影させてもらえるまでになった。
ところが写真を発表する段階になって、青焼きの校正刷りが防衛庁の手に渡ってしまったのである。(以下防衛庁の担当と、福島さんのやりとり)

「これはどういうことか」
防衛庁広報課長は僕を睨みつけて、まだ青焼きの校正刷りを机の上に叩きつけた。青焼きが防衛庁の手に渡っていることに驚いたが、写真をゆっくり1項目から見終わってから答えた。
「『現代の眼』に入稿した兵器産業告発の写真です」
真っ赤になって立ち上がった課長は机を叩いて叫んだ。
「コメントは誰が書いたのかっ」
「僕が書きました、憲法違反の自衛隊を告発するコメントです」
「貴様っ。よくも騙したなっ、貴様のような大嘘つきの非人間的な奴は見たことがない。すぐ原稿を撤回して来いっ」
 すごい剣幕だった。落ち着かなければと気持ちを押さえ、コメントを読み始めると、「落ち着き払って何だ、貴様っ、それでも日本人かっ」と罵詈雑言を浴びせかけられ、僕も激昂した。
「僕は日本人ですが、あなたとは違う日本人で、この国の憲法を尊重するジャーナリストです。九条を侵害して再軍備をした犯罪的な自衛隊を告発するのが僕の仕事です。嘘を言って撮影したのは詫びますが、自衛隊こそ大嘘を言って国民を騙しているではないですか。公務員は憲法を守る義務があります。発表は絶対止めません」。
「どうしても止めないかっ」。脅迫的な言葉が頭の上から落ちてきた。カッとして叫んだ。「どうしても止めさせたかったら、僕を逮捕して刑務所にぶち込みなさい」。
・・・・・

その後、同業(カメラマン)の人間を利用して防衛庁は金で買い取ることを暗に示した。その話を蹴ると、福島の元へ、今度はある商社を通じ、某国から写真を買いたいという電話が執拗にかかってきた。
電話の盗聴もされた。
防衛庁に復讐されるかもしれないと恐れた彼は、6000枚あまりのフイルムを富士フイルムに頼んだ。が、富士フイルムは「防衛庁の感光材料などの大口納入先ですので」と断ってきた。ニコンサロンは「防衛庁と夜間の暗視カメラなどの共同開発をしているので」とこちらも逃げられた。

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各誌で告発キャンペーンを始めると、明らかに防衛庁関係者や右翼からと思われる嫌がらせの脅迫電話が続いた。尾行もされ、乗り降りの駅を変えたりして気をつけていた福島氏をある夜暴漢が襲った。家には彼の子どもたちもおり、自分の怪我よりとっさに家族の危険を思ったのは言うまでもない。大怪我をした彼の被害調書をとった目黒署は酒の上でのケンカにしようとしたが、「犯人に心当たりがあるか」という問いに防衛庁とのトラブルや脅迫電話、尾行などの経緯を話すと、突然主任が筆記を止め、「ああ、これはいらないや」と呟きながら調書を裂いてくず籠に投げ込んだ。
その3日後、彼の家は放火された
たまたま家にいた高1の娘さんは自分のものは何も取らず、父親の一番大事なもの(フイルム)を煙の中から持ち出した。父子家庭という事情もあり、福島氏は娘さんの気持ちを思い、かわいそうなことをしたと泣いた。


胃癌を患い体重37キロという。見るからに人生の最期を想起させる90才の好々爺しかしいったんカメラを構えるとその目は獲物を狙うかのような鋭い眼光にかわります。

福島さんは土門拳(私は高校時代に写真を始めたときに、土門拳の本を買いましたw)のリアリズム写真運動に感動してプロの写真家になる。扱うテーマは常に権力と対峙しているため、公安からのマーク、盗聴、妨害暴漢に襲われ怪我や自宅も不審火とされてはいますが焼失したこともありながら、現在も写真を撮り続ける福島さん。

軸がぶれてないのでしょう、この年齢になっても年金すらもらっていないことからもわかります(ドキュメント番組の中でも話していますが、けっして楽な生活ではないようです。年間の収入が数十万円とか)。国を糾弾するのに年金がもらえるかって!私的には年金もらってでも生活して、シャッターをいつまでも切ってほしいと思うのですが・・。

たぶん私が思うに、平和を守ることが覚悟のいることだということを突きつけられたように思います


今年の私のテーマは軸をぶらさない覚悟かなぁ?


ピグ部屋に頂き物\(=^O^=)/'`*:;。・★ワーイ!!アリガトーー!!☆・:.;*

可愛いキャンドルです。どなたかわかりませんがありがとね(´∀`*)エヘ


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