工学部の資源に移行した2年の武田知樹です。今日はイスラーム世界について記します。

山川出版社が出している『新世界史』という教科書がありますが、実はこの教科書を隅から隅まで眺めてみても、「イスラーム世界」という言葉が一つもありません。驚くかもしれませんが、目次だけでもみたら、たしかにイスラーム世界という言葉が載っていないことに気づくでしょう。この教科書の執筆者である羽田正先生は、イスラームの専門家であり、『イスラーム世界の創造』(東京大学出版界、2005年)という本の中で、「イスラーム世界は存在するのか?」という問いを立てました。羽田先生は、イスラーム世界は存在しないと考えたために、自身の執筆する教科書にはイスラーム世界という言葉は載せなかったのです。よく考えたら、イスラーム世界とは何なのでしょうか。例えば東南アジアを見れば、現在のインドネシアの人口の90%以上はイスラーム教徒であり、マレーシアも同様です。しかし、東南アジアがイスラーム世界だというイメージはあまりもたないでしょう。つまり、イスラーム世界という言葉は、一見してよく使うように見えて、突き詰めるとよくわからない言葉なのです。人によってイスラーム世界のイメージが違うということも言及しておきたいです。イスラーム世界はどこにあるのかと言ったとき、答えはなく、人によって違うのです。
なぜこのようにイスラーム世界という言葉について、これほど論争があるのでしょうか。私はここに3つの原因があると考えます。
第一に、世界は伸び縮みするということです。例えば、イベリア半島を見てみると、ウマイヤ朝が支配してから、ここは長らくイスラーム世界でした。ところが、今は誰がどう見ても、イベリア半島はイスラーム世界ではないのです。
第二に、この世界というものは時代によって様々な形で伸び縮みするわけだが、イスラーム世界の場合はその輪郭がやけにわかりにくいということです。私の大好きな中東の研究者である臼杵陽先生は、「このイスラーム世界は開かれすぎており、開かれすぎているがゆえによくわからない」というように、輪郭がつかめないという言い方をしていて、私も本当にその通りであると思っています。
第三に、「世界」という言葉がダブルミーニングであるということです。東京大学に伊東俊太郎という先生がいたが、伊東先生の代表作に『比較文明』(東京大学出版会、1985)というものがあります。伊東先生は、例えばラテン語文明といったような言い方をとります。普通、私たちはラテン語世界と言ってしまうのだが、どちらの使い方が正しいでしょうか。それは絶対に伊東先生です。私たちはかなりいい加減で、私たちはあるときは西ヨーロッパ世界と表現したり、またあるときには地中海世界と呼んだりします。つまり、ダブルミーニングです。「世界」という言葉を適当に使っているから、ある統一的な性格をもった世界と、単なる場所としての世界を混在させて使っているわけです。だから、伊東先生はそうした適当な言葉遣いは嫌がるわけです。「世界」という言葉は単に地理的な場所を意味し、ある統一的な性格をもつ世界については「文明」という言葉でちゃんと表現しようというのです。
私は普段使っている「イスラーム世界」の「世界」が、ここでいう「世界」か「文明」なのかはもはやよくわかりません。このダブルミーニングが、この問題をさらに難しくしているのではないでしょうか。