九州王朝説『偽書疑惑』の波紋2 | 南船北馬のブログー日本古代史のはてな?

南船北馬のブログー日本古代史のはてな?

日本古代史は東アジア民族移動史の一齣で、その基本矛盾は、長江文明を背景とする南船系倭王権と黄河文明を踏まえた北馬系倭王権の興亡である。天皇制は、その南船系王権の征服後、その栄光を簒奪し、大和にそそり立ったもので、君が代、日の丸はその簒奪品のひとつである。

九州王朝説『偽書疑惑』の波紋2           室伏志畔



「偽書疑惑」と九州王朝説の反動化





 

 九州王朝説の提唱から20年たった90年代は、少数とは会員内論客はすでに自立し、古田武彦の業績を認めた上で、その問題点が論議されつつあった。その批判的継承をもって九州王朝説のさらなる進展と打開が模索され始めていた。しかし、古田の会再編はこれに水を差し、異端者を『東日流外三郡誌』での造反者と同じ穴のむじなとし、会から追放をはかった。それは九州王朔説を古田枠に萎縮させる反動化の始まりであった。

 それを象徴するのは、九州王朝説の主舞台の九州の「多元の会九州支部」の追放であった。その「九州支部」は九州王朝説の金字塔となった「君が代」の舞台を博多湾岸だと古田に教えた会の追放で、古田のご乱心を語る。この追放によって九州の新情報が途絶えた古田は史論展開に急ブレーキがかかり、九州王朝説は急激に陰ってゆく。

 『東日流外三郡誌』問題は、明治期に柳田国男がその養子先の柳田家に関わる十三湖伝承に重なる。一時期、柳田国男が深く関わった問題で、決して戦後の偽書といった浅い問題ではなかった。偽書疑惑は古田の論ではなく、古田が組んだ和田喜八郎に焦点が向けられたのは、かつて皇居の近衛兵として勤務し、中野学校にいたと調べればすぐわかる問題で和田は経歴詐称し、戦後、和田旧家の天井裏から文書が落ちてきたとするさらなる証言が、その家を昭和十五年に新築したとする当の大工よって否定され、和田喜八郎頼りの古田は、一人反論に立つも、会員離れは進行し、現在、若い人で九州王朝説を知る人は少ない。

 偽書問題は、この国では記紀史観と衝突する限り発生を余儀なくされる問題で、それは大和中心の皇統一元史を庇護するために、政治的に仕掛けられる問題としてある。江戸時代まで珍重された『先代旧事本紀』は聖徳太子の手になるとした一行のため、それから一世紀した『日本書紀』からの引用が明らかになるや、偽書の汚名を現在も受け、記紀と大違いの扱いにある。ましてや、90年代を前後して会員800名、そのシンパがその10倍に及んだ九州王朝説は、体制側にとって脅威であった。そこに生じた「偽書疑惑」問題は、毀誉褒貶激しい『東日流外三郡誌』を古田が称揚したのを、好機と見て作為されたのである。



 その意味で「偽書疑惑」問題は、安本美典(写真を仕掛け人とするが、その主意は九州王朝潰しにあったので、バックの影は奥深い。  

その四千余巻からなる再写文書が和田喜八郎一人の手に成るとする偽書派の言い分を鵜呑みするわけにはいかない。問題は安倍・安東氏が正統皇統を主張するところに核心があるので、それは1300年かけて創られた皇統一元の記紀史観の恩恵にあずかる権力層にとって見逃すわけにはいかず、それが皇統に先在する九州王朝説とタイアップすることに、体制側が危機感を覚えたことに「偽書疑惑」問題の本質がある。