山柿の門と不尽の歌-万葉集をどう読むか(1) 室伏志畔
「大和中心の記紀史観」から古代史を「葦のずいから天井のぞく」ように見るのではなく、出雲王朝→九州王朝→近畿王朝と変遷した王朝交替論から、なぜ和歌が山柿の門と呼ばれるに至ったかを本日はお話したく参りました。
一.倭国文化と国風文化
古今和歌集を中心とする「たおやめぶり」から、万葉集の「ますらおぶり」の復興を目指したのに賀茂真淵や正岡子規がいますが、残念ながら国風文化観からの万葉集の奪回には至りませんでした。国風とはほかでもない漢風に対する和風を意味しますが、今一つ倭国文化の復興の意味を隠しもっていることに誰も気づかずにいます。それは「倭国を日本国のかつての亦の名」とする記紀を鵜呑みしたために起こった誤解で、私はその倭国を、中国史書に委奴国・邪馬台国・倭の五王・俀国と名を連ねた、博多湾岸から豊前から肥後に及んだ九州王朝としてきました。このかつての倭国文化を踏まえ、十世紀を前後して女文字である仮名文字を駆使しての、畿内での文芸復興が国風文化の意味です。
七〇一年に大宝が建元され日本国が誕生しますが、それは倭国から日本国に三種の神器が移ったから可能となったので、その歴史背景を踏まえてかぐや姫の物語は生まれたのです。その『竹取物語』とは「竹斯(筑紫)取り物語」の謂で、これを踏まえ九州王朝・倭国から近畿王・大和朝廷への転換が生まれたのです。それを万世一系の天皇史をもって隠したのが記紀史観で、そのため新生・日本国の遣唐使は、日本国をかつての倭国と、中国で言い張ったため、「入朝する者、矜大、実をもって答えず」と『旧唐書』で批難されています。
その八世紀に始まる奈良時代に正倉院が登場しますが、なぜ、この時代に急に多くの御物が平城京に出現したかは、それは九州王朝・倭国の宝物が手に入ったことにあります。私たちは大英博物館やルーブル美術館で、エジプトやメソポタニアや古典ギリシアの美術品を見て、それらが帝国主義時代の略奪品であることを前提に、それらを鑑賞します。しかし、正倉院の御物の八世紀前のものが九州王朝からの略奪品であることに気づかず、遠い大和の昔からの皇室の収集品であると誤解してきたのです。この間違いの内に大和朝廷はそれに先在する九州王朝や出雲王朝を隠し続けているのです。
こうしたかつての優れた文物を模倣する中に文芸復興が生まれます。イタリアの文芸復興であるルネッサンスは、古典ギリシア・ローマ文化の復興であるように、国風文化は倭国文化の日本国での復興にあったのです。イタリア・ルネッサンスの雄・ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井画はあまりに有名ですが、ローマ法王はそれを七人のキリスト教の聖者を描くように指示したのですが、それを蹴ってミケランジェロは旧約聖書の世界を描いたのです。それはあの地中海世界の五人の異教の巫女と七人のユダヤ教の預言者が書き込まれたことに明らかで、キリスト教世界観に古典ギリシア・ローマの地中海文化の異教の息吹を吹き込まれたことで、あの圧倒的な芸術世界は現出したのです。
しかし、倭国文化の復興である国風文化は、大和中心の天皇制史観をもって九州王朝を隠す姑息なやり方を取ったため、それは表舞台ではなく、裏舞台の後宮文化から生まれたかな文字を通して、倭国文化の消化が始まります。つまり国風文化は倭国文化の復興の一面をもった、日本風に変質された後宮好みの倭国の文芸復興なのです。その端的な例を、「続万葉集」と呼ばれる古今和歌集を見ることから万葉集の世界に入りたいと思います。
二.赤人の不尽の歌
古今集には紀貫之の仮名序と紀友則の真名序があり、とりわけ仮名序は高名で、その中で、二人の歌の聖(ひじり)がこう取り上げられています。
人麿は赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける。
これは人麿より赤人を明らかに上に見るもので注目に値します。これに対し、これをいずれ劣らぬ人麿・赤人同等説を説いた岩波古典文学大系本のを踏まえた解釈が通説として行き渡っていますが、それは贔屓の引き倒しにすぎません。むしろ、紀貫之の指摘に万葉集から古今集への和歌観の転換が、倭国から日本国への転換を踏まえてあったのです。
万葉集を代表する歌人は何人もいますが、好悪を離れ、その第一人者は誰かとなれば、九割以上の誰もが柿本人麿を挙げるでしょう。それが古今集時代になると人麿と赤人の二人を歌の聖(ひじり)としながら、山部赤人こそが一等、優れているという見方を紀貫之は打ち出したのです。
和歌を「山柿の門」というのはここに始まるのですが、なぜ、紀貫之が赤人を人麿より上と見たかについては、これまで誰もまともに応えてくれたことがないのです。そこに岩波のような解釈も生まれたのですが、彼らは日本国とは藤原王朝であることを忘れているのです。第38代天智から第125代今上天皇まで88代の天皇の67人の皇后が藤原氏から出ています。これを押さえずして天皇制論議は成り立ちません。
そこに倭国=日本国とした八世紀以来の記紀史観を排し、我が国の「物語の祖」とされるかぐや姫の『竹取物語』を「竹斯(筑紫)取り物語」として、倭国から日本国への王朝交替を見なければなりません。お伽話は、九州王朝のラスト・プリンセス・かぐや姫が秘蔵する三種の神器を巻き上げ、仲人役の「色好み五人」がかぐや姫に群がった歴史秘話に題材を取っているのは、日本国の最初の年号が大宝と、三種の神器の移動を誇っていることに明らかです。
そのことを踏まえ、人麿と赤人の和歌を押さえる必要があります。人麿は長歌一九首、短歌七〇首の合計八九首に加え、『柿本朝臣人麿歌集』を加えると膨大な数になります。そこで、先に赤人の長歌一三首、短歌三七首の五〇首に当たることにしましょう。しかし、それらを全部調べるに越したことはないですが、紀貫之が赤人を人麿より上に見て、われらの時代の歌の聖と軍配上げたからには、その理由は人口に膾炙した歌にそれを幻視していいのです。そこで先ず教科書で習った赤人の歌を思い出すと、
田児の浦ゆ打ち出て見れば 真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける(巻三 三一八)
若の浦に潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして鶴鳴き渡る(巻六 九一九)
という二首が思い出され、私は後者の和歌の浦の歌が印象的でしたが、今一つ田児の浦の歌のよさがわからなかったのですが、斎藤茂吉が万葉名歌で取り上げ、また百人一首では、それを少し改変し、こう採取しています。
田子の浦に打ち出て見れば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ
つまり、後世はこの不尽の歌を赤人の代表作としたことがわかるのです。それは、今も、日本のイメージが海外ではフジサンとゲイシャで紹介され、中国人が富士山観光に現在、大挙、押し寄せていることによっても明らかです。海外はともかく、日本での私とこの世評との乖離は埋められねばなりません。
それで万葉集を開いて見ると、この二つの歌は共に反歌としてあり、不尽の歌の長歌は、「山部宿禰赤人、不尽山を望める歌」として、こうあるのを知るのです。
天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 振り放け見れれば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は(巻三 三一七)
それを朗唱しつつ眺めやると、やっと私には、この不尽の歌が名歌として残り、赤人が歌の聖として紀貫之によって推奨された理由が、この長歌を踏まえやっと呑み込めてきました。古人はこの暗黙の前提を踏まえ、不尽の歌を名歌としてきたのです。それは世阿弥風に云えば、「秘すれば花」で、それに推参することなく理解不能です。
そこでは叙景歌人とばかり見えた赤人の凄さの一面があったのです。この長歌は一見、叙景歌に見えますが、日と月が雲と雪が不尽を中心にひしめくようなことはありえないことに気づけば、この歌はそれら自然素材を使った観念描写で、それら自然に仮託してこの列島の共同幻想を赤人が寓意していることを読み込むことで始めて、この歌の真意は読めてくるので、その自然素材が語る共同幻想とは、こうなのです。
日→ニギハヤヒを天照大神に改め祭祀した倭国東朝(豊前王朝)→大和朝廷の前身
月→月読命を祭祀した皇統の淵源にある天孫ニニギ命の高神(高皇産霊命)王朝
雲→八雲国を征服した出雲王朝→大和の物部王国
不尽→倭の五王を補佐した武内宿禰に始まる藤王朝→大和の藤原王朝
となります。日本国を立ち上げた藤原王朝は、この列島で出雲や九州で覇を競った先在王朝を、藤原王朝である不尽の膝下に組み敷いてある大和での現在が、「渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばか」る情景が見えてくるのです。それを赤人は一見、何気ない不尽の情景を描写するかに見せて、現下の状況をものの見事に描き出したのです。たまたま旅の途中、赤人は駿河の田児の浦に通りかかり、歌を思いついたのは、実は加賀の同音の多祜の浦が藤の名所であったことにあり、そこから雪を戴く峻厳な富士山を見て、藤原王朝の現実に立ち返ったことにあったのです。
そこではかつて柿本人麿が全身全霊をもって山河を揺り動かすごとく歌った倭国の歌である倭歌ではなく、日本国の正史である「日本書紀の真実」(嘘)に倣い、不尽が遠い昔から世を睥睨していたごとく、自然そのままにかつてからあったごとく歌い上げたところに、この藤原時代を乗り切る知恵を紀貫之は赤人に見出したのです。それをあからさまに指摘するのではなく、それとなく自然詠のごとく歌う奥床しさに、和歌における古今の一線を紀貫之はこの不尽の歌に見て、日本国の歌の聖として赤人を人麿より上位に評価したのです。