4628siroさんのブログに『一番古い記憶は、何?』ってありました。
丁度その直前半世紀も前に住んでいた家を訪ねて
感動していた処でその事を一寸書いて来ました。
私が幼稚園時代(四歳~六歳)を過ごした能登鉄道脇の小さな家です。
あの頃もそんなに立派な家ではなかった筈の
小さな家が今まだこうして建っていることが不思議です。
トタン屋根の手前の平屋建て、和室一部屋、土間に流し台と便所そんな間取りでした。
ですから手前に見える妻入りの部分は後で増築されたものですね。
隣は記憶にありませんが道路を挟んだ向かい側は畑で
悪さをして所有者の小父さんに良く叱られたものでした。
写真で見る建物手前の三角地面、この季節は親父とオフクロが茄子やトマトを作っていました。

この細くてゆるい坂道を登るとこんな陸橋があります。 

陸橋の後ろに見える住宅地は当然ありませんでした。 鉄橋を渡ると幼稚園の同級生が一人いて 今でいう回覧板を届けに夜外灯もないこの橋を渡ったものです。
回覧板を届けるとこの家からあめ玉が一つ・・・
陸橋の脇から駅方向への鉄道線路を眺めてみました。

半世期を経て未だにあるこんな家が不思議でした。
水道は勿論井戸もなくやはり三十メートルほど離れたこの家まで桶を担いで親父が水を汲みに行きます。
多分大家さんだったのかもしれません。
確かポンガシか煎餅を売っていたような記憶も有ります。

親父は役場、オフクロは行商。
弟と妹は未だ幼児、多分オフクロが連れて歩いていたのだと思っています。
そんなある日向かいの畑にあった柿が食べたくて仕方ありませんでした。
柿をとる時先が二股に割った竹竿なんかを使いますね。
其処で幼稚園児の頭で一生懸命に考えました。先が二股に分かれているモノ・・・・これだと云うことで、ベンチを逆さまにして竹ぼうきの先に挿し込んでみました。
これで大丈夫、これで柿をとって食べることが出来る・・・
期待一杯の甘い考えでした。
柿の枝に触るかどうかでそんな不安定なベンチは上を向いた私の顔をめがけて落ちてきて、左の目の脇に当たってしまいました。
後一センチずれていたら・・・・伊達正宗公になっていました。
今でも左目じりにその名誉の負傷の跡があります。病院へ行ったかどうかの記憶はありません。
多分親父得意のタバコの葉を揉んで止血に使って其の儘で終わったと記憶しています。
線路より一段高くなっている
この平屋の家の線路側の空地へ入ってみました。
半世紀前
日曜日の朝、親父とオフクロは列車に乗って仕入れた魚を担ぎ金沢まで行商に出かけます。
最後尾のデッキに立って此処から見送る3人の幼児に手を振っていきます。
魚を売ったお金で日用雑貨を仕入れて、1週間オフクロが能登でこれを売りさばく・・・・
そんな生活でした。
能登の女はたくましくよく働く
『男の一人や二人養えないでどうする・・・・』そんな言葉を聞きます。
妹は記憶にありませんから多分ヨチヨチ歩きですから連れて行ったのだと思います。

遠い昔、皆食べることに一生懸命でした。
当然子供四人抱えた我が家も大変だったと思います。
日曜日偶に親が家にいて、
ウドン粉をこねて麺棒で伸ばして作ってくれたウドン。
何も入っていなかったけれどそれは美味しいものでした。
ラジオから聞こえるのは喉自慢大会。
初めて歌謡曲を覚えたのもこんな日曜日の午後のラジオからでした。
この町の幼稚園を卒園して、小学一年生から今の居住地に又移り住みます。
まだまだ旧い記憶は遡りますがこんなちっぽけな家を訪ねて
身体一杯に思い出がよみがえった時、
4628siroさんのブログにあった 『一番古い記憶は・・・・』を見た時
これは書き込んでおこうと思ってしまいました。
次回はもう一度古い記憶へと遡ります。