寒さで気持ちが上がらず
布団から出るのが七時過ぎ。
 
珈琲カップを片手に新聞を広げて
一面記事をみながら
互いに足を引っ張り合ってないで
本当に我々国民の明日を考えて欲しいと
考えてしまいます。
 
街中の通学路
イメージ 1
 
 
昨日の続きです
 
その日、その日を 母は母なりに
一生懸命に頑張って生きているのであって
その子供が長男とは言え
 
  『ああしろ
  『こうしろ』 と指図するものではない。
 
親は幾つになっても親であり、
親は自分の子供たちと和やかな生活を送りたいのである。
 
私はそれを少しお手伝いしているだけである。
 
確かにその日の気分、感情に依って
母も左へ曲がったり右に曲がったり坂道であったりするけれど
 
私たちが歩く道だって
いろいろ曲がりくねった道を毎日歩いている訳で
明日の事など分かるものでなく
喋る言葉にも強弱がある。
 
年老いた母が好きなように生きたいように
精いっぱい頑張っているのをみると自然と自分の身体が動いてしまう。
 
それは自分の幼児を育てていた時のように夢も希望も何もないけれど
せめて母が生きて歩く道中で倒れない様に
転ばぬように杖の様なものかもしれない。
 
 
親たちが私たち子供を育てる中で一緒な気持ちで
杖になり、案内人であり、傘になって守って来たように
今は歩く者が子供と老女とに入れ替わっただけと
特別に真剣に悩むことも何もない。
 
それを自分の勤務先まで電話が入ったと文句を云った処でどうするのであろう。
 
母に八つ当たりして、どなり散らしても
自分の気持ちがその時少し満足するだけであって
お互いが気持の好い筈が無い。
 
 
年老いて、思考力も、記憶力も筋力も体力も全てが落ちているのに
我々常人と違って当然でもある。
 
 
時々はトイレに間に合わず、
ちびって畳の上に新聞紙が敷いてあったりするけれど
それは誰にでもあること。
 
 「汚い」 とか 「だらしない」 とか云ってどうなるのだろう。
 
 「アレッ新聞広がっているねぇ、どうしたん?」
 「オシッコ漏れてしまって・・・」
そう云って笑っていた方がどんなに二人とも幸せでいられるのである。
自分で気づいて新聞紙を広げて敷くまだましとすべきであろう。
それはそれでいいのだと思うし、別に恥ずかしい事でも何でもない。
 
八十五歳を過ぎて
尚一生懸命に、
まっすぐに体当たりで真っ正直に真剣に生きている。
 
だからこそ自分の年金も心配なのであり、
父親の残していった全てのものが大事なのであると思う。
 
                                              続く
 
先日お正月とか云っていたのにもう一月も終わりそうですね。
ホントに月日のたつのは早いです。まるで回転ドアーみたいです。
せめてそんな日にちの早さに足が絡まって転ばぬようにしたいものです。
 
そろそろ穏やかなお天気になりますように