≪人を愛すること、自然を愛すること、人生を愛することの喜び、そんなことを
教えてくれた父でした。
遠い戦地での母との出逢い、そして幼き私たちの手を引いての引揚げ、満州・
北支・そして遠い九州よりこの地へと向かう激動の中、貧しき中にも人を羨む
ことも、また怨むこともなく、ひょうひょうと生きた父の人生でしたが病と闘うこと
十年余りとうとう帰らぬ人となりました。
考えれば毎日のいろんな人との出会いに胸をときめかせていた二十代、出会
いに一喜一憂していた三十代、四十代も半ばになると人と人の数だけ別れが
あって、出会いの喜びより別離の涙の方が重いようなそんな気がします ≫
その年の暮れに出した年賀欠礼の挨拶状が残してある。
本当にひょうひょうと生きた人であった。
ただ家族を食させる為、家族を守るために生きた人でありその傍ら、春の山菜採りから晩秋の山芋掘りまで休日ごとに近郊の山を歩き回った人であった。
若い頃に肺を手術したとかで肩甲骨の下に大きな傷跡があってそのせいか時々立ち止まって大きく呼吸をして、そしてまた歩き出す。
一緒に連れて歩く子供らに「草笛」の造り方からけがをした時の緊急の血止めの方法や皆父が教えてくれたものである。
山歩きから海、川での魚釣りも含め自然との関わりが全て父親から学んだのであった。
何所へ行くのも父の後を追い、今日も何かしら教えて貰おうとただひたすら破れかけたズックを履いて付いて歩いたものである。
酒も飲まず、趣味と言えば同人誌に投稿する俳句作りと偶のパチンコくらいのものであったかと思う。
家庭的であった反面、教育と躾には厳しく何故か分からぬが私は中学生、高校生まで父親にも母親にも叩かれ、殴られて育った記憶かある。
何故私だけが叱られていたのか未だに深い原因は分からない。
兄と喧嘩すれば「 弟のくせに・・・」 と叱られ、弟と喧嘩になれば 「兄のくせに・・・」とかく次男と云うものは割が合わないものである。
クラスや学年でもそこそこの成績であっても兄と比較すれば見劣りし、弟のこととなれば上二人に疲れ果てて怒る気力もなくなっていたのであろう。
今風に考えれば触りやすい性格であったのかもしれないとも思う。