そう云った訳で兄とは同年で卒業したのではあるけれど兄は東京から帰り、結核とかで当地の病院へ入院する。
退院まで二年ほどかかり、又暫くは自宅療養の日々が続いた。
だから実社会へ出たのは私が一番早かったわけであり、兄の入院費の支払いと弟への仕送りとに追われながらも社会人になったのを喜んでスーツを誂えてくれた親である。
愚痴も言わず子供らの為にひたすら仕事する両親であったし、この頃ようやく待望の自宅の収得にかかった親はようやく人並みに自分たちの財産に手をかけたのである。
時々酔っぱらって帰る社会人一年生を笑いながら寝かせ、郊外の自宅からバス停まで三十分も歩き、相も変わらず終バス近くで帰宅する母。
暫くの時間に隔離病棟へ入院中の兄へ栄養食を運ぶ母親はこんな時何を考えていたのだろうか、ただ息子の一人と妹がが巣立ち、待望の新しい自宅を手に入れた僅かの喜びがそれらの支えであっただけのかとも思う。
ただ私はもっと幼い頃は中学、高校と素晴らしい学力を持った兄との成績を学校でも家庭でも比較されるのが嫌であlりたまらなかったった。
と云ってある意味では要領の良い次男である私はクラスでも学年上位にはいた記憶はあるのだが今となっては自信もない。
寝ても覚めても勉強、勉強の毎日で耳が痛くなるほどでもありそんな帰りの遅い親たちの目を盗んで悪友たちとつるんで町へ繰り出すのも私の日課でもある。
高校時代にはそれが気に入らぬらしく何かあると親に叩かれ殴られて育ったものである。
大学受験も目の前に迫り、高校の卒業式間近、私は喫茶店での喫煙が見つかり親の学校への呼び出しと一週間の自宅謹慎への宣告もあったけれど、その日学校へ出かけて校長始め何人かの教師に頭を下げながらも弁解もせず、覚悟して帰宅した私を怒ることもなく、そんなことがあったかの様な顔をして黙々と晩御飯を食べ、翌朝には記録的な豪雪のなか父は役所へ母は生命保険の外交に出かけて行ったものである。
中学と高校とはある意味では多分にふしだらな、それでいて要領もそこそこ
良くクラスでは役員もこなし教師の覚えも良く、傍らで親に対する反感もあっ
て親も驚く全く別の世界にあこがれていた私はこの時の親の態度が以後の
私の考えを大きく変えさせた事件 だ ? と今でも思っている。