それでも負けず嫌いで頑張りやの母は六十歳を超えてもこの仕事を続けてきたし、当時人に良いことを云われなかったこの仕事に対して愚痴もこぼしたこともなかった。
おまけにこの生命保険会社での成績は常に全国上位にあり、北陸には某女有りとまで言われた程でもある。
我々兄弟が皆大学へ進学、卒業できたのも平々凡々たる公務員であった父親より全て母のおかげである。
戦地よりの引揚で、学歴もなく三十歳過ぎての中途採用であった父親にしても、息子たちには教育の上では分け隔てもなく、何としても大学だけは卒業させたいとの思いもあったようである。
親の元から地元の大学へ通っていた私は学生時代によく
「お前たちには分けてやる財産は何もないからせめて大学だけは出してやる。後は頑張って自分の力で生きていくように」 と何回も云われた。
まだ貸家生活であった。
親の生活を見ていた私は高校時代、進学か就職か高校三年の正月近くまで悩んでいたものである。
就職の方が楽かナなんて思っていた節もあるのであるが。
そんな父が公務員生活の中での中途採用と学歴の無さが余程身にしみていたのだと思う。
中学時代から学年のトップクラスであった兄は当然のごとく一流高校へ入るが大学の受験に失敗、途中から東京の予備校へ入り、二浪の上、地元の大学は駄目でそのまま東京の大学へ母のコネで入ることになる。
進学するなら東京へと思っていた私は結局は地元の大学。
こんな校舎で学生生活を楽しんでいました。
もう暫くで大きな欅も紅葉します。 平成19年秋の紅葉

そしてスポーツの関係で大阪の大学へ進んだ弟は六年かかって卒業したようである。
アルバイトもせず、奨学金も利用しない兄への仕送り、大阪への仕送り、当然しわ寄せは私と当時高校生であった妹の所へ来るのだが、私は結構友人やら、大学の教授からの紹介のアルバイトもあってさほど不自由もなかった。
「高校生の時より授業料も安くなった」 と云って笑っていた母親の顔。
いろんな事が思い出される。
東京にある県の学生会館の下宿料の方が安いからという親の希望もそこでは勉強にはならないと新宿で一軒家を借りた兄、勉強ができないと云えば何も云わなかった両親でもある。
東京と大阪との二つの私立大学生と地元の公立大学生、そして高校生、おそらく家の中は『火の車』と云うより『火のロケット』みたいな状況であったと思う。
我が家には電話もなく母の帰りを待つ間もなく、夜又自分の職場まで歩いて兄への電話をかけに行く父親の姿を見て何を感じていたのか今の私には当時の自分の心が分からない。