八十歳を大分前に過ぎた母からの毎日の電話。
 
正直に云って電話に出たくない時もある。
昼間はともかくとして今まで一緒にいて晩御飯を食べて貰って、自分の晩食をどうしょうかと迷うほど疲れ切った夜の十一時近くは特にそうである。
 
 
強い母であった。
 
軍属であった父とは別行動であって、万が一の時の為のピストルを懐に、私を背負い、兄の手を引きお腹には弟を宿し、多分全てを投げ出し、泣き出したいくらいの気持ちで引揚用の港へ急いだであろう。
 
多分私の計算では母、三十三歳くらいの筈である。
 
父と合流して中国からの引揚、父の実家のある九州の田舎での生活。
 
母の出身地である能登の漁港のある町で親戚を頼っての生活。
そして妹の誕生。
 
漁師や親戚から分けて貰った 『魚』 を担いでの行商、帰途には生活用品を仕入れて田舎での行商生活。
 
一軒家の二階の一部屋の間借り生活であった。
 
それも子供四人が煩いとかで立ち退きを求められたこともしばしばであった。
 
やがて私が小学生のころにはお寺の一部屋を借りて、日曜日には親子で山へ炊飯のための薪取。
 
配給制であった米を何度も計りなおしながら袋から米櫃へ移し替えていた母の姿が目の前にある。
 
そんな子供たちも段々食べ盛りになってくると、それに麦が入り、外米が入ってくる。
 
ヤミ米を買う余裕もなかったようである。学校で食べる弁当箱の麦飯が隣に座る女の子に妙に恥ずかしかったことも覚えている。
 
 そんな中をボタンつけの内職、近所の菓子屋への手間仕事、ジッとしている母の姿は見たこともなく記憶にはない。
 
そのうちに私が小学生の頃からであったろうか母は生命保険の外交員に出だした。
もうその時には能登からこの地へ移っていたが親戚が有るわけでもなく母の苦労は大変であったであろうと思う。
 
自転車に乗ることもできなかった母はひたすら歩き、終バス近くに帰ってきたものである。