一体だれが、いつ、日本の名前を 倭 にしたのか??

「それは、漢の時代 『漢委奴国王』の金印が始まりでしょ。」

そう思われる方が多いと思います。

 

古代日本史から古代中国の歴史になります。

一度では紹介できないので分けて投稿します。

「山海経」大陸の国々を紹介してる書が

 蓋国 在鉅燕南倭北 倭属燕
 「蓋(ケイ)国は鉅燕(きょエン)の南、倭の北に在り、倭は燕に属す。」

鉅燕は中国の北部(紀元前11世紀頃~紀元前220年)

蓋国は後の韓(朝鮮半島)

北から順に 燕、蓋国、倭国 です。

しかも、倭は燕に属す ですので

倭は燕に貢物を贈っていたようです。

 

ほぼ同じの『論衡』(ろんこう)では

の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
・周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。

 白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。 

成王は、周朝の第2代の王で前1042年 - 前1021年

紀元前10世紀ごろ

既に 倭 と云う呼び名はありました。

倭人は暢草と云う薬草を周や越の王に渡しているようです。

倭は燕に属す」とは、この薬草を渡したことでしょう。

しかし、残念なことに「凶を除くあたわず」でした。

 

日本は縄文時代晩期か弥生時代早期

日本人が仙人思想を知り薬草で中国と交易をしていた。

ちょっと信じられないですね。無理です

北から順に 燕、蓋国、倭国

多分

朝鮮半島は一つにまとまっていない。

複数の国があった。

黄海側(現在のソウルかピョンヤン付近)の国が薬草を貢いでいた。

彼らは、大陸の仙人思想にのっかり

「東の海の先にある倭国の者です。」と自らを倭人と紹介した。

つまり

この時代の倭国は日本の事ではないのです。